悪平等のコスト







最近、教育現場でよく語られている問題に、「最初から競争を拒否している層」が増えているということがある。脱落してドロップアウトではない。ハナから競争に加わる気がない人達が多いのである。ほとんど勉強をしないし、知識をつけようというモチベーション自体を持っていない層。「受験戦争からの脱落」という視点で語られることも多いが、それ以上に「自分はこのままでいい」と最初から割り切ってしまっている、というほうが真実だろう。このような現象を憂う人も多いが、もしかるすると、これは日本の将来にとってとてもいいコトではないかという気がする。このまま階層分化が進み、水面下に沈んだままで一生を過ごす層と、向上心を持って自助努力をする層とが分化してゆけば、日本は見事に復興する可能性があるからだ。

平準化が行き過ぎた現代の日本は、甘え・無責任がはびこる悪平等社会である。しかし、この悪平等を維持するためには、計り知れないエネルギーが必要なのだ。社会的には、そのコストもバカにできない。地下水脈の中を貫通している地下トンネルを、水没せずに維持するためには、常にポンプで水を湧き出てくる以上にかき出す必要がある。人間に差がある以上、悪平等を維持するためには、このポンプのような再配分システムの存在が不可欠である。利権や許認可制度、公共事業に代表される「社会主義的官僚制」のように、直接的に所得の再分配を行い、悪平等を維持・拡大するためのコストでさえ莫大なモノがある。それだけではなく、社会システムの多くの部分が、金と手間をかけて悪平等を維持・拡大することをを目的として作られている。

この巨大なコストを負担しつつ、悪平等を維持、発展されることができたのは、世界の歴史でも類まれな、右肩上がりの高度成長に運良く乗れたからだ。明日の成果は、必ず今日の成果以上に大きい。これが続いたため、結果的に悪平等を維持するためのコストをカタチの上では負担することができた。しかしこれは、先の成長を見越してコストを先取りしている、いわゆる「自転車操業」以外の何者でもない。年功給でベースアップがあるのを前提に、若いうちにクレジットで買い物をしまくるようなものである。これがあくまでも幸運に過ぎず、いつまでも続かないことを認識していれば、その果実を享受することも悪くはないだろう。だが、日本の高度成長は長く続きすぎた。

その結果登場したのが、「高度成長しか知らない世代」である。具体的には団塊の世代以降の戦後世代がそれにあたる。こういう人達は、基本的に社会が「自転車操業」であることに気付かない。それが既得権でしかないからだ。そして、そういう世代が、社会、特にビジネス社会の大半を占めるようになったところで、そのスキーム自体が崩れだした。安定成長ベースの社会では、悪平等を維持するためのコストを捻出できない。いま直面している社会的な問題は、社会システム自体に、右肩上がりを前提にしているものが余りに多いことだ。バブル経済自体がずっと続くことを前提に作られた、バブル期のリゾートの事業計画のようなものだ。

そう考えてゆけば、今問題になっている年金も、健康保険も、それらのシステムが作られた高度成長期に、当時のような「右肩上がりの高度成長が、未来永劫続く」ことを前提にモデルを組んだために生じた問題ということができる。事実、その当時からすでに、その荒唐無稽さを批判していた識者もいた。これらは未来に対する甘えでしかない。その甘えで、悪平等を実現しようというのだから、これは二重の意味での甘えだ。社会はこのコストに耐え切れなくなっている。しかしそこに生きている人々の多くが、まだまだ甘え・無責任な悪平等社会を享受したいと思っている、もっというと、それ以外の社会を想像だにできないというのが、今の日本の社会の構造的問題の原因だ。

そこで起こりつつある、今後も努力しつづける層とドロップアウト層との二層分化である。その結果、ある面においては確かに経済はシュリンクするだろう。だがそこで減るのは、いわばバブル部分である。これは、単価、利益の低いものを、数でこなして収益につなげるビジネスモデルから、単価、利益の高いものを、その価値がわかるターゲットに的確に提供して収益を得るビジネスモデルに変えることで乗り切ることができる。そういう意味では、全国画一のショッピングセンター、GMSの乱立に代表されるような、大衆悪平等型の市場構造は変化する。大衆レベルの「その他大勢」に関しては、生活レベルの低下は免れないし、マーケットそのものが、より低付加価値、低コスト型に変化するだろう。

だが、質の高いマーケット、国際競争力となる付加価値の高いマーケットは、足を引っ張られることがなくなる分、競争力が強まり、結果として国際的視点からもより高いパフォーマンスを生むことができる。もちろん、悪平等を維持するコストを払わなくて良くなることもメリットとして大きい。しかし、それ以上により競争原理が強力に働く分、常に向上のための努力を強いる環境が整うことが大きい。これなくして、日本社会、日本経済の復興はない。これこそが構造改革の本質である。このように、階級社会化なくして日本の未来はない。しかし、暴力的なリーダシップや革命を必要とすることなく、すでに階級分化は静かに起こりはじめているのだ。足を引っ張りさえしなければ、未来はあるということ。これはなんとも喜ばしいことではないか。



(01/11/30)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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