タコ壷と文化





またもや世代論の続きだが、今の日本ではこれがけっこう重要な視点だし、世に言われている「閉塞感」を打破するにもこれがカギにもなる。それは、昭和40年代生まれというか、いわゆる「団塊Jr.」を中心とする層がほぼ社会人となる時代になり、その動向が社会に与える影響が大きい時代となってしまったからだ。彼ら・彼女らは、よく言われるように「群れる」世代であるが、いくつかの社会学的な調査が示しているように、実際昭和30年代生まれのような「オタク化」や「タコ壷文化」を拒否し、より大きな集団としてまとまろうというモチベーションが強い。従ってこの世代には「メジャー」はあっても、本当の意味で「サブカルチャー」はない。実は価値観の多様性を自ら否定することで、自分のアイデンティティーを見つけようとしている感さえある。この世代的メンタリティーと、近代の終焉が重なったところに、今の日本の活力の低下があるのではないかという気もする。

もちろん、この世代の中でもアウトサイダーはいる。それは世捨て人的な「超オタク(体育会系のスーパースポーツマン指向もここに入る)」と、「メジャーになりきれない二流のヤツ」のどちらかである。そして、タコ壷に入っている連中に後者が多いのが特徴でもある。たとえば音楽で言えば、インディーズこそビジネスモデルが違わなくてはならないのだが、バンドブームの頃から変質し、二流の業界人、二流のプロダクションの巣になった。構造的に売れないから、ローコストでやってます、という。これは、バンドブームとバブルが一気にシンクロしてきた弊害だったと思うが、その後90年代に入ってメジャーへの求心力が強まる中で、かえって構造的に強化された。それとともに「サブカルチャー」というもの自体が時代とともに変質して、そもそも「カルチャー」でさえないも活動の免罪符になってしまっていたことも確かだ。

ある活動がオルタナティブなカルチャーとなるためには、それを心のよりどころとしている人が、数的にはマイノリティーだが確かに存在していることが条件になる。だからこそ「カルチャー」なのだ。カルト宗教が、即サブカルたりうるのはこの理由による。一方、単なる趣味やファッションでは「カルチャー」たりえない。そういう意味では、メインストリームのカルチャーがあって、コンセンサスとして意識されてはじめて、その外側に成り立つのが「サブカルチャー」である。そういう意味では「群れる文化」が主流となり、大政翼賛会的な「全員主流派」の文化しか持てない人達にとっては、サブカルチャーの意味を捉えること自体が難しいというのは当然のことかもしれない。

しかし「群れる文化」の裏にあるのは、あくまでも「大衆」の幻想である。平準化され、平等化された「豊かな大衆」の虚構が信じられるのならば、自分が「豊かな大衆の一員である」と信ずるのと同じ原理で、「メインストリームでメジャーなカルチャーの一員である」と信ずることができる。それが信じられない状況になった途端、人々は自分の立脚点を自分の中から証明しなくてはならなくなる。大衆の一員である人達は、「自分は何者であるか」を証明する必要がない。それは、大衆とは「匿名の人間」の集団であるからだ。人間の姿形をし、群集の中に紛れているだけで、アイデンティティーが獲得できると思い込める。なんとも気楽で、なんとも無責任な話だが、少なくとも過去はそれで許されてきてしまった。

だが世の中は、来るところまできてしまった。匿名集団である「大衆」を維持するモチベーションも力も、社会自体が失いつつある。「大衆」でいたくても、大衆という概念自体が虚構化してしまえば、そこに逃げ込むことはできなくなってしまう。この問題は、社会のシステムやメカニズムの多くが「大衆」を基盤としている現代の日本においては、ことさら大きな問題となる。日本という国は、直接大衆をターゲットとせざるを得ない「メディア」や「エンターテイメント」といったビジネスはもちろん、マーケティングや流通自体も「大衆」ベースに最適化しすぎている。確かに20世紀末の日本では、世界でも稀なほど「大衆社会化」が進んでいた。経済活動が合理性を追求するものである以上、全てといっていいほどの社会機構が「大衆社会」への最適化を図ってしまうのも、当然の成り行きかもしれない。

ぼく自身、20年ぐらい広告やマスコミの仕事をやってきたが、その間感じ続けていたことは、「この世界って、ぼくの思っている「表現」とは違う世界」だということだ。匿名の大衆に向かって表現できる表現者と、特定の顔も人格も持った人に向かってしか表現したくない表現者とは、そもそもメンタリティーが違う。だが、こと日本のメディアやエンターテイメントにおいては、大衆に向かって表現できる表現者だけが「表現者」だと思われてきた。しかし、その大衆に向かった表現のほうが、どうやらマーケットとしては頭打ちになる様子が見えてきた。もちろん人間の能力のあり方から考えても、「匿名の大衆」がなくはならないと思うが、それが即マジョリティーという時代は終わりを告げ、多様なクラスターの一つという位置付けになるだろう。

ある種の職業的な暗黙知として、メディアインフラが変わろうが、インタラクティブになろうが、それで「個々のメディア企業の浮沈」が起こることはあっても、ビジネス構造自体が変化することはないという確信がある。送り手と受け手がいる限り、インフラが変わっても、ニーズのあるコンテンツをターゲットの元に届けることは可能だからだ。しかし、「ニーズのあるコンテンツ」が作れなくなるとなると、話は変わる。エンターテイメントでもメディアでも、広告でもそうだが、今まで狙ってきた「大衆」がいなくなってしまったら、それ以外の「拠りどころを持ったサブカルな人々」にアピールするコンテンツを作れない限り、ビジネスはジリ貧になってしまう。

しかし現状においては、これらのビジネスを支えるクリエイターは、かなりの部分「大衆」ターゲットに特化した能力を持った人達だ。今までは、「大衆をつかまえて、金になるコンテンツを創れるかどうか」という視点で、表現者を評価してきた。この結果、「一流の表現者とは、金が取れるプロである」というのが、自他ともに認める評価基準となった。音楽、ことLM業界においては、これが半ば常識化している。しかし、表現者として一流かどうかは、アピールした相手の数で決まるわけではないし、ましてや稼いだ金で決まるわけではない。価値観が多様化し、相手の基準に合わせた多様なコンテンツが求められる状況になったとき、今までの発想を捨てて、ニーズに合わせたコンテンツを提供できるかどうか。これがビジネスの生き残りのカギとなる。

この問題は、そもそも表現や創作の世界の本質を見失っているところにある。創作の世界の例として、たとえば最も代表的な文学で考えてみよう。日本の文学界では、詩人や歌人においては「一流の創作者」はいても、音楽の世界でいうような「プロ」はいない。かつて一世を風靡した俵万智にしても、喰いっぷちで考えれば、最初は国語教師だったし、著述家になってからも、収入的に言えばエッセイストとして喰っていたのが実情である。同じ文脈で考えれば、純文学の作家でも同じことだ。なんとか賞を取るような純文学の作家でも、収入から考えれば、賞を取った作品の印税ではなく、ネームバリューを生かした雑文家やテレビのコメンテーターとしての収入のほうが桁外れに多い。だからこそ、純文学系の出版社は、お抱えの有名作家に、系列の雑誌でコラムを持たせることも多い。

現実の問題としては、業界の内部や周辺には、時代が変わっても特定のターゲット向けのコンテンツを創りだせるクリエーターはいるし、そういう人材を発掘できるプロデューサーもいると思う。こういう人は、仕事は割り切りながら、自分固有の能力はそれなりに温存し鍛えている。もっとも数的には少数派だろうし、世代的にも片寄っている。実は、その世代的偏りが問題なのだ。偏りがあるからこそ、サブカルの発信者を世代内に持ち、その「教祖様」の元でたくさんのカルト集団としてまとまる世代と、あくまでもマスにコダわる世代とがわかれてしまう。世代論自体がそういう構造を持つ以上、社会が世代によって真っ二つにわかれてしまうことになる。具体的には「団塊の世代+団塊Jr.」による「大衆ノスタルジア派」と、「ポスト団塊+ポスト団塊Jr.」による「サブカルタコ壷派」の対立ということだ。

前者は「相対的に大きな」塊を作り、「大衆の後継者」を主張しつづけることで多数決のパワーを主張する。その一方、後者は多様に分裂したタコ壷を増殖させることで、「大衆」さえも「相対的に大きな」タコ壷化し、「大衆」の位置付けをクラスターの一つとして相対化する。そういう意味ではこの勝負、周りにたくさんタコ壷を作ったほうが勝ちということなのだろう。大衆のノスタルジアにひたるかぎり、その外側にいる人達を包含することはできないからだ。囲碁でも外側を取ったほうが強いワケだし(笑)。大衆でいるつもりの人達も、いつのまにか「相対的に大きなタコ壷」の中にいることになっている。その時点でパラダイムは変わってしまう。しかしそう思ってみると、団塊Jr.世代は、「今と変わらない幸せの中にいるのならそれでいい」とばかり、自らそのような結末をのぞんでいるようなフシさえ見られる。果してどうだろうか。


(01/12/07)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる