これからの社会






ここ2回ほど、続けてこれからの広告のあり方、これからのマーケティングのあり方を見てきた。となると、次はそれらのヴィジョンが前提としている社会のあり方はどういうものか、ということになる。折りしも21世紀最初の年も暮れようとしている年末である。ここは一つ、これからの社会はどのような構造になり、どのように動いてゆくかを見てゆきたいと思う。まず最初は、社会構造である。これは言うまでもなく、平準化された悪平等の大衆社会がどう壊れていくのかがカギになる。その場合、「2つのサービス業」という視点が重要になる。同じサービス業といっても、高付加価値知識集約型(=ソフト産業)の産業と、低付加価値労働集約型(=工業化された単純労働)の産業とは全く別物だからだ。

この両者が同時に形成される、すなわち産業社会における均質的な産業構造や労働構造が、質的に異なる多元的な構造に変わる。さらにこの両者は、国民経済的見地からの役割が異なる。国富創出という視点からは、前者の「サービス業」が中心になるのはいうまでもないが、雇用創出という視点からは、後者の「サービス業」が中心になるからだ。すなわち、高付加価値知識集約型のサービス業は、主として企業という形で事業を行い、BtoB、BtoC型のビジネスモデルとなる。このような構造の収入を得る層を一次所得者とする。一方、低付加価値労働集約型のサービス業は、企業化されることがあっても、基本的にはCtoC型のビジネスモデルであり、一次所得者に対しサービスを提供して対価を得るという意味で、二次所得者となる。

この一次所得者と二次所得者の分離が、社会構造を考える上でのポイントとなる。この結果起こるのが「社会の多層化」である。このようなプロセスを経て中長期的に日本社会が到達する社会構造は、アメリカのような並列的に多様な社会クラスタが存在する「多元型社会」とは少し違う。多様なクラスタが存在するものの、社会連関上はヒエラルヒカルな関係性を基本とする「多層型社会」を形成する。特に、「ハイリスク・ハイリターン・自己責任」指向型のクラスタと、「ローリスク・ローリターン・無責任」指向型のクラスタとの間で、大きなギャップが生じる。前者が新しいグローバルな人間類型とするならば、後者は「大衆」的モデルに依存しつづける旧態依然とした人間類型であり、日本はこの両者が重層的に並存する社会となることが特徴となる。

これに対し、多層化した階層社会に適応した社会制度の改革が必要となる。たとえば所得税制度など、現状の日本の社会制度は、悪平等とも言えるほどに平準化した、産業社会の社会構造に最適化したものである。社会の多層化を前提にすると、将来の税制は「二次所得者」については現行の所得税制度と同様のもので構わないものの、「一次所得者」については、その所得でより多くのサービスを購入し、より多くの二次所得者に対する所得転移を促すよう、サービス支出を所得から控除できるような税制を導入する必要がある。このように社会制度面でも「ハイリスク・ハイリターン・自己責任」と「ローリスク・ローリターン・無責任」の二重構造を作り出し、自己選択により選べるようにするならば、この変化はそれなりにソフトランディングするものと考えられる。

次に国際関係について考えてみよう。どうも明治維新以来、日本の位置付けというか、日本のセルフ・ポートレートには、かなりの思い込みというか思い上がりがつきまとっている。そもそも日本は、ヨーロッパの多くの国と同様、自分自身だけで自立した経済圏を築ける基盤をもっていない。19世紀的な帝国主義政策が成り立たない現在では、あくまでもどこかの自立した経済圏の経済循環の一部としてしか存立しえない。20世紀後半においては、日本はアメリカ経済圏の一部として存在し、「(アメリカの自立した経済サイクルに依存する国の中では)一番経済力を持つ国」という地位を確立した。自立した経済圏を築けないという構造的問題は今後も続くため、どの経済圏の循環を利用して自国のポジショニングを行なうかが問題になる。

そこで重要になるのが、中国との関係である。それは、中国は今後の経済発展が続けば、現在のアメリカ同様「自立した経済圏を築ける」国であるからだ。日本からすると、「アメリカの自立した経済サイクルに依存する」ことが唯一の選択肢ではなく、「中国の自立した経済サイクルに依存する」経済運営も可能になる。日本のポジションは「中国経済圏の一部として、中国の自立した経済サイクルを利用して経済基盤を作る」上では、地勢的にきわめて有利なものである。これを活用すれば、今までのアメリカ経済圏一辺倒から、アメリカ経済圏の循環と、中国経済圏の循環の両者に組み込まれることで、楕円状に二つの焦点を持つことができ、経済基盤として有利なポジションを持てるのみならず、政治的なカードとしても有利になる。今までの外交政策からは出てこないこのような視点も、今後は重要になる。

中国との関係はそれだけではない。21世紀における「中国的なるもの」がどうなるかを考えると、単に経済圏以上の問題と可能性が潜んでいる。今後、中国の経済が一層発展する中で、なお一つの国としのて求心力を働かせるには、一筋縄の方法では対応できない。そのためには、近代西欧的な国民国家でなく、中国の歴史上伝統的な国家のフレームワークをもう一度復活することが必要になる。具体的には、欧米的な「力」による求心力・統合ではなく、まさに中国的な「徳」により求心力・統合の復活である。このような強力な「徳」を持つ「皇帝」が登場した場合、その「徳」は日本、韓国といった東アジア地域にも充分および、求心力として働くことも充分考えられる。こういう状態が生まれれば、単に経済の問題にとどまらない、世界の中心としての東アジアという位置付けさえ生まれる可能性がある。


最後に、「日本人」の意識変化について考えてみよう。そもそも日本人は、「国家意識」が希薄な国民として知られている。日本人にとっての伝統的な「国」意識は、まさに「クニ」と呼ばれている「地域」である。日本人は、「クニ」と「地球・人類レベル」の帰属意識はあっても、近代国家として「創り上げられた」日本国への帰属意識はもともと持っていない。奇しくも、日本の国内における「クニ」の規模は、たとえばヨーロッパのバルカン半島等で見られる「民族」の規模と一致する。明治になって、西欧列強と対抗するために強引に導入された「国民国家」意識から離れ、本来の帰属意識が働く単位を新たな政治・経済の単位とすることが、21世紀的な民族主義の台頭にも答えることであり、その意味でも「小さな中央政府=地方分権・権限委譲」の実現は、社会・経済の活性化に大きな意味がある。

また、社会の多層化にシンクロして、日本人の労働意識も変化する必要がある。社会構造が、高付加価値知識集約型と低付加価値労働集約型という2つのサービス業中心になると、特に低付加価値労働集約型の労働に対して、どうモラールアップを図るかが問題になる。近代においては、日本人の労働意識は「生活の糧を得る」であったが、これだけでは金額の多寡が直接的に問題になり、労働構造の変化とともにモラールダウンの危険性が高い。それを回避する意味でも、社会のため、他人のためになるサービスは尊いという。ボランティアや社会貢献的な労働意識を構築する必要がある。この意識転換に成功すれば、たとえばNGOと称することで、日本の労働者を、外国において土建業的な単純労働に従事させることも可能となる。

これから導き出されるのが、日本人のイエ意識が変化しなくてはならない、という結論である。現在では、給与所得に基づく核家族というのが日本の家族の基本とされているが、それは明治以降の工業化社会にオプティマイズした結果である。江戸時代の商家、武家等を見てもわかるように、元来日本のイエとは血縁家族的なものではなく、資本や格といった有形無形の資産を守り、拡大してゆくための合目的的な組織であった。したがって、イエの中には血縁関係のみならず、多くの雇用関係に基づく使用人がおり、イエ自体が雇用を生み出す単位となっていた。「2つのサービス業」が活性化するためには、20世紀のような「イエの中では家族労働のみ」という考え方を捨て、一次所得者の「イエ」自体が、二次所得者の雇用を生み出すことが必要である。

多分、21世紀の最初の30年程度をかけて、これらの変化が進んでゆくものと考えられる。もちろん、こういう方向性に否定的だったり、こういう方向性を望まない層もそれなりに多いと思われる。しかし、このモデルのポイントは、大衆を大衆のままにほっておいても、「この指とまれ」で自分からリスク・テイキングをし、積極的に前進する人間さえいれば、社会はそっちへ進むというダイナミズムをベースとしている点である。日本の守旧派というのは、思想と哲学に裏打ちされた、明確なイデオローグとしての「守旧派」ではない。既得権を守って楽したいというだけのモチベーションである。だからこそ「抵抗勢力」に過ぎない。「改革派」も大衆の幻想にとらわれすぎていたのではないか。もう数の力はいらない。君達は、そこにいていいよ。でも、僕達は先に行くよ。全てはその一言から始まる。

(01/12/28)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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