二つのグローバル







昨年のテロ事件以来、国際テロリスト集団の主張に同調するわけでもないのだろうが、なぜか「グローバル化」に対する反対する論調が増えてきている。しかしその多くは、極めて感情的、観念的で、説得力をもたない。それは、彼らがグローバル・ルールそのものを、意識してかどうかはさておき、キチンととらえることができないことに起因している。グローバル・ルールとは何か。それは元来、グローバルな試合に参加するためには、誰もが最低限守らなくてはいけないルールのことである。それならばグローバル・ルール自体は、元来誰を利するものでもなく、至ってフェアなものであるはずだ。

問題はそれではなく、そのルールの元でアメリカチームが多用する戦法まで含めてグローバル・ルールと呼ぶ向きにある。アメリカ自体が、意図的にこの両者を混同することで、自分の土俵に相手をあげて有利な闘いを進めるために利用している。それはある種の舌戦、場外乱闘みたいなもので、勝手にホザク分には仕方がない。イヤなら聞かなけりゃいいだけだ。それを知ってか知らずか、アンチ・グローバル・ルールな人達の多くは、決してグローバル・ルールそのものを否定するわけではなく、グローバル・ルールの元で繰り広げられているアメリカン・ウェイをもって「グローバル・ルール」として批判する傾向が強い。

これはスポーツの例で考えるとわかりやすい。力と力が対決する大リーグに代表されるアメリカ型の野球、高校野球に代表される「妖術((c)2001 大串昇平)」対決を宗旨とする日本型の野球。この両者は違うといえば違う。それを重視する人にとっては、宗旨論争のように重大な問題となる。が、基本ルールは共通なので、日米野球でちゃんと対戦できる。それで日本が姑息に勝ったりもする。いかにアメリカ野球でも、ちゃんとバントはあるし、そのカウントの仕方も共通である。だから、大リーガー相手にバントをしても、それがどう思われるかはさておき、試合にはなる。そういう意味では、野球はのルール自体はグローバルなのだ。

同様にサッカーでも、ヨーロッパスタイル、南米スタイルなどいくつかのスタイルがある。各地域でも、それぞれ国ごとに特徴的なスタイルを持っている。だからこそワールドカップでは、それぞれのスタイルの頂点の国同士が対決し、白熱した試合を見せる。本来のグローバル・ルールとは、この野球やサッカーのルールのようなものである。それは試合を成り立たせるための最低限の規定であり、それをベースに各チームの戦法が組み立てられる。グローバル・ルールは、勝者を決めるためのルールとはいえるが、勝つための方程式ではない。これを見ても、ビジネスやマネーゲームにおけるアメリカン・ウェイは、グローバルルールそのものでないことがわかるだろう。

確かに、アメリカの恫喝的な手口にも問題がある。あえて、グローバルに共通化すべきルールと、自分の得意技を高く評価する身内の評価を混同し、それがよく理解できない相手にドサクサに紛れて強要する。これはたとえていえば、「日本のサッカーは3秒ルールで、3秒以内ならボールを手で扱っても良い」と主張するようなものだ。これはグローバルな発想と話が別だ。ともすると、チャンピオンは自分に有利なようにルールを変えたがるもの。しかしそれでは異種格闘技戦になってしまう。誰もも対戦しなくなる。皆がみんな、勝手なルールを振りかざしたのでは、試合にならない。

ルールと戦い方。本来この両者は別物である。南米チームが、整然とヨーロッパスタイルの攻めを見せても、これでは何かつまらないし、強みも発揮できないだろう。ルールと戦い方が、独立の軸であるからこそ、多様性も生まれ、グローバル・ルールがある意味も生きるのだ。だからこの問題も、ルールの軸と、戦い方の軸という二つの軸を考えれば理解しやすい。グローバルに共通なルールの上で、フェアに競争したいかどうかという軸。アメリカのやり方が好きかどうかという軸。この両軸でマトリックスを考えれば、4つの象現が想定できる。そして、国際関係の中でしめるポジションによって、選好する象現が決まってくる。

グローバル・ルールもアメリカン・ウェイも「+」という第一象現。これは、まさにアメリカとその運命共同体である。しかし、ここに入ってくる国や地域は少ない。それらは、長い目で見れば、アメリカの一部になったほうが幸せだろう。グローバル・ルールは「+」だが、アメリカン・ウェイは「-」という第二象現。ここ入るのは国際競争力は持つものの、アメリカとは違うやり方のほうがメリットがある国だ。独自のプレゼンスを重視するフランスや、世界の向上となりWTOに加盟した中国などが代表的だ。このメンバーになるためには、どこかの領域で国際競争力を持つか持とうと目指しさえすれば良いわけで、オイルショック時のOPEC諸国などもここを目指していたはずだ。

さて、一つ飛んでグローバル・ルールには「-」だが、アメリカン・ウェイには「+」という第四象現の国々。これは、はっきりいってアメリカの属国である。アメリカに政治的・経済的に従属しなくては生きては行けない、それゆえ競争力をもたない国々だ。とはいうものの、アメリカへの併合はイヤだし、独立は維持したい。そういうムシのいい主張になる。実は、こういう国は世界にけっこう多い。冷戦時に同盟国を増やすべく、格別の条件で各種の支援や援助を行なったツケが回っているということなのだろう。そして、一番問題があるのが第三象現、グローバル・ルールにもアメリカン・ウェイにも「-」という国々である。

第三象現の国々は、一見アメリカと最も対立しているように見える。確かに、アメリカと公然・非公然の敵対関係になっている国や組織は、ここに分類されるものが多い。しかし問題は、正の相関という意味では、ここに分類される国や組織は、アメリカと同じ穴のムジナというところにある。一見相対立するようなフリをしているものの、それが構造的な役割になっているなら、実は堅固に一つの体制を支え合っている運命共同体である。丁度日本の55年体制における自民党と社会党のようなものである。そういえば、そういう国々を「テロ国家」と認定し、アメリカが介入して戦争状態になることは、どちらにとってもメリットがある。

弱小勢力であっても、アメリカとよく戦うことで、士気は高まり、団結も増す。結果オーライであり、それなりにメリットがある。一方戦争好きなアメリカにとっても、大義名分をもって戦争を起こせるメリットは計り知れない。何のことはない。プロレスのヒールとベビーフェイスの関係ではないか。こんなものにダマされてはいけない。もっといえば、こと日本国内で「アンチ・グローバル・ルール」を主張する人達は、フェアな市場原理、競争原理を嫌い、利権・既得権保護を主張する、守旧派・抵抗勢力である。そう考えてゆくと明解になる。行くべき道は、グローバル・ルールは「+」だが、アメリカン・ウェイは「-」。これこそ、自立・自己責任の意識なくしては取りえない道だからだ。


(02/01/18)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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