マーケティングのパラダイム・シフト






確かにネットバブル、ドットコムブームに湧いていた頃に比べれば下火になったものの、インターネットによるインタラクティブ化の進展と、それに基づく顧客データの集積によるCRMの実践がマーケティングを変える、という論調は今でも根強く聞かれる。このような意見を主張する人々の中には、「狼少年的」に必要以上にその影響を喧伝し、自分の論陣をドラマティックに見せようという論者も多い。しかし、「大量生産・大量販売に基づくマスマーケティング」の手法という視点から考えれば、ある意味でそれは事実である。いままでのマス・マーケティングの手法では、どうしても最適化が図れず経験値に頼らざるをなかった部分が、インタラクティブ化によって最適化可能になるからである。

しかし、それは本質的にマス・マーケティングのあり方を変えるものではない。生産計画から販売計画までの一貫した流れの中で、最も不良在庫の原因となるリスクの高い「需要の把握」をより確実化しようということに過ぎない。今までのマス・マーケティングにおいては、市場自体が右肩上がりであることを利用して、ある種の不確実性を含んだまま、気合と願望に基づく生産計画を立ててしまうことが多かった。しかし、それはメソトロジーというには余りに曖昧でプリミティブなものだ。「需要に基づく最適化」を行ないたくても行なえないからこそ、仕方なくそういうリスキーな見込み生産を行なっていたに過ぎない。

しかし、世の中が右肩上がりに時代は終ってしまった。安定成長の時代には、こんな生産計画は通用しない。そういう意味では、インタラクティブなマス・マーケティングの必要性はよくわかる。SCMを貫徹するには、需要を見切り、不良在庫が出ないが逸失利益もないという最適な生産計画を立てる必要がある。CRMとは本質的には、その最適な生産計画のための数量を決定するための方法論である。あくまでもネットワーク時代、インタラクティブ時代に対応した、マス・マーケティングの最終完成型であるに過ぎない。これは決して革命ではない。新たなスキームや、マス・マーケティングにとってかわるものではないからだ。

確かに、コンシューマグッズを製造する企業にしても、そのキャンペーンを受け持つ広告業界にしても、一か八か商品、ダメ元あわよくば商品の乱立を許してきた消費マーケットに甘えてきた部分がないといえばウソになる。そのような曖昧な領域をなくするという意味では、CRMに代表される「最終ニーズにもとずくSCM」の完成は、マーケティングのメソットロジーに、それなりに影響を与えるものに違いない。しかし、それは本質を変えるものではない。レベルの低い商品、レベルの低いマーケティング戦略(それはしばしば「戦略」になっていない)を許さなくなるだけであり、ハイレベルで付加価値の高い商品に付いては、なんらかわるところはないからだ。

それより問題は、マス・マーケティング的な手法が通用しない商品やマーケットが増大し、消費市場全体のシェアの中では、相対的にマス・マーケティングの通用する市場のほうがマイノリティーになってしまうということにある。これは、このところ何度も論及している「社会の多層化」が消費市場に与える影響である。たとえば、「大衆的なメンタリティー」を持つ人と「個的なメンタリティー」と持つ人との比率が2:1だったとしよう。今起こりつつあるのが、旧来のような「社会の階層化」であれば、人間自体が「大衆派」と「個人派」に分かれてしまうので、その比率も2:1であり、少なくなったとはいえ「大衆的なメンタリティー」派がマジョリティーを占める。ここに対してはマス・マーケティング的な手法が通じるので、当面はそれで安泰ということになる。

しかし「社会の多層化」が起こり出すと、少しワケが違ってくる。「社会の多層化」は一人の人間の中でも、「大衆的」な部分と「個的」な部分との分離が起こることを前提としている。こうなると、ある商品に対して「大衆的メンタリティー」に訴えるマス・マーケティング的な手法が通じる層は、単純に考えても「基本メンタリティー」が大衆型であり、なおかつ「その商品ジャンルでの志向性」が大衆型の人ということになり、2/3×2/3、つまり全体の4/9しかいないことになる。もはやそれはマジョリティーではない。のみならず、そもそも2:1というのがかなり甘い読みなので、マス・マーケティングのターゲットは、実際にはもっと少数派になるだろう。どうやっても、ノンマス・マーケティングが必要とされる市場のほうが大きくなるのだ。

では、ここで求められている「ノンマス・マーケティング」のポイントは何か。それはマス・マーケティングが定量的で論理的、再現性のあるメソトロジーに基づいていることに対し、極めて定性的、情緒的な、アーティスティックな感覚に基づいている点にある。その商品やサービスと出会った途端、「これは自分のために用意されていたものだ」と直感的にピンとくるし、シックリくる。これができるかどうかが問題なのだ。映画や音楽といったエンターテイメント・ソフトでいえば、単にヒットを作れるだけでなく、どう感動を作れるかという勝負になる。これは明らかに天才的な能力の問題である。秀才が努力で獲得できるものではない。

実はこれが、今問われているマーケティングのパラダイムシフトである。マス・マーケティングが、理論とデータにより誰にでも最適化可能なスキームに基づいていたのに対し、ノンマス・マーケティングはセンスあふれた天才アーティストにのみ可能な「神のワザ」の所作となる。そして、そういう「ワザ」なくしてはつかまえられないマーケットのほうがマジョリティーになってしまうということである。そして、決してなくはならないものの、マス・マーケットはそれが必然的にビルトインしている「価格競争」の要素ゆえ、金額ベースでは市場は確実にシュリンクして行くだろう。

しかしよく考えるとこの構造は、旧来のマス・マーケティングが通用する世界も、狭くなったりとはいっても存続している一方、その外側に新たなノンマス・マーケティングの世界が広がりだす、ととらえることもできる。そうなると、これはまさに社会の多層化の構図そのものではないか。そう考えれば、あまり驚くことも恐れることもないのかもしれない。それは社会の多層化とともに、自然に対応可能なものということなのだろう。ただしマス・マーケティングにどっぷりひたり、マス・マーケティングで対応可能な人達には、永遠に対応することはできない領域なのだが。

(02/02/08)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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