あきらめる若者たち





そもそも大衆の行動様式を考えるキーワードの一つとして、付和雷同ということがあげられる。付和雷同する大衆。それは「自立・自己責任」で行動する層が、自分の内部にリファレンスを持ち、あくまでも自己アイデンティティーで行動するのに対し、「甘え、無責任」で行動する層は、自分の中にはリファレンスを持たず、常に外部の誰かの視線を見たり、行動をマネることにより、他己アイデンティティーでしか行動できないことに基づく。他己アイデンティティー層の行動リファレンスが、あくまでも自己アイデンティティーを持つ層であるなら、それなりの秩序は保てる。しかし、他己アイデンティティー層同士が互いにマネしあって、行動を正当化したらどうなるか。これがまさに付和雷同である。

この現象は、わが国における「ブランドブーム」を分析するとティピカルに見て取れる。自己アイデンティティー層にとってブランド商品とは、「質で選ぶブランド」である。自分のメガネにかなうクオリティーのある商品。それを常に提供できるのは歴史とノウハウの蓄積されたブランドメーカーの強みでもある。一方他己アイデンティティー層にとってブランド商品とは、「見られるためのブランド」である。すでにエスタブリッシュされているブランドの価値を借りる事で、自分の価値が高くなったような気分になり、自己満足にひたれる。同じブランド商品ブームといっても、この二つの層の間では、違いが顕著に見られる。これが、今の日本の一つの側面でもある。

社会・経済のグローバル化とともに、世界をベースに活躍する「自立・自己責任」層の拡大については、すでに多くのところで語られている。しかし、超大衆社会を打ち壊す、もう一つの変化も見逃してはならない。それは、「開き直り」層の拡大である。ある種大衆というのは、他己アイデンティティーを基本とするがゆえに、「となりがやるなら自分も」という気風が強い。だからこそ、ある閾値を越えると、皆が我も我もバスに乗り遅れるなとばかり、一気にブームになるところに特徴があった。しかし、それに動じない層が顕著になっている。

自分はこのままでいいんだ。他人と同じにしなくてもいいんだ。とばかりに、世の中の動きに反応しない層。そのベースには、他人の視線を気にすることへの疲労感、無意味感が充満している。この典型的な例が、「あきらめたがる」若者たちだろう。全てに希望をもたず、最も刹那的で等閑な反応に終始する。街角で座り込む連中。満員電車の中で、化粧したり、ツマミ食いをしたりする連中。いろいろ言われることは多いが、そのベースになっている意識は共通している。要は、他人を意識することに疲れてしまっているのだ。目の前に物理的には他人が存在しても、意識の中では自分の中に引きこもっているから、その存在を気にすることはない。

同様の「やる気のなさ」が、形の上では逆の方向に表れることもある。たとえばクラスの中などのように、強制的に集団化された場合だ。学業とか音楽でも、スポーツも、出来すぎると仲間外れにされる。だからほどほどの存在でいたい。若者の間でバンドが流行らなくなったのも、スキーをやる人が減ったのも、こういう現象をみると、一見昔ながらの「他人を意識した集団への自己同化」が起こっているように見える。しかし分析してみるとその理由は大いに違う。今の集団同化は、皆が自己中心的に「ほどほどでいたい」と思っているがゆえの産物である。だからこそ、集団から外れた存在を許さず、厳しくイジメることになる。

日本人の特徴として、他人から見られていると、必要以上に背筋を伸ばすということがある。それは別に、日本人が立派な人間性を持ち、しっかりとしていたわけではない。まさにその逆、甘え・無責任の裏返しとしての、体裁整えである。人が見ていなければ、旅の恥はカキ捨て。人が見ていると、ころっと打って変わって優等生ぶる。なんとも底の浅い連中だろうか。しかし、この「タテマエとホンネの乖離」は昔からこれほどまでに大きいものではなかった。大正デモクラシー以来の、大衆社会化の進展とともに顕著になってきたものだ。だから、まだ明治生まれが社会の主流だった戦前社会においては、今ほど乖離がなはなかった。

少なくとも高度成長期以降は、超一流大学出身の人はその出身校を隠したり、話題がそっちへ行くのを嫌う傾向が顕著だ。それは、正面切ってそれを主張することが、妬みを呼び、差別、イジメさえ引き起こす可能性があるからだ。同様に、資産家であることも、多くの場合「隠すべき事実」となっている。これは、それらがカンボジアのポルポト政権のように「悪の記号性」となっているからではない。もちろん、タテマエとしてはいいことだし、だからこそ皆学歴社会の受験競争が是認され、金儲けして資産を持ちたいと思っている。ある種、タテマエとホンネの乖離の最たるものだが、これらは少なくとも戦前の都市部においては見られない。

一流大学では尊敬されたし、インテリは差別用語ではなかった。資産家はキチンとその義務を果していれば、白い目で見られることはなかった。成金と資産家は違ったのである。もちろん、修身のような場では、貧しくても心の清い人が最後に成功するというような教訓の説話が多く語られている。それもうがった見方をすれば、昭和になるとともに、懐も心も、共に貧しいひとが多くなってきたからこそ、そういう説話を例に出して人の道を語らなくてはならなくなったと言うこともできるだろう。まさに、久野収氏の説く「密教徒」が「顕教徒」にその数で圧倒されてゆく過程である。

このように、大衆の収縮は二つの方向で起こっている。一つは、グローバルに通用する自立・自己責任層の形成である。これについては言うまでもないだろう。これが全体の2割程度と考えられる。もう一つは、最も「甘え・無責任」な層の脱落である。最低限の体裁整えさえも苦痛になってきた彼らもまた、全体の2割程度存在する。責任意識という意味では、正反対の両極に位置する層が、それぞれ大衆から脱落することで、大衆的なメンタリティーを持つ層が、全体の2/3程度になってしまった。というのが、ちょうど現在の日本社会の構造である。この構造を考えると、今後ますます上下各層の分離が進んでゆくことも理解できる。

この構造を、もっと社会学的な視点から捉えれば、よく言われている「中産階級の崩壊」「社会の階層化」ということになるだろう。しかし、問題の本質は生活水準や所得水準ではなく、生活意識の構造的な違いというところにある。だからこそ多層化なのである。その結果、全てにおいて「自立・自己責任」な層から、全てにおいて「甘え・無責任」な層まで、多種多様な人々が日本の中に渾然一体として暮らすことになる。上にしろ下にしろ、その向きはさておき、脱大衆してゆく層は、ある種自分の意志としてそうなるのだから問題がない。だからこそポイントは、大衆の夢を見つづけている層を、どうダマしつづけられるかというところにあるのだが。

(02/02/15)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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