可哀想な人達






改革の時代に突入すると共に語られることが多くなったのが、いわゆる「守旧派」「抵抗勢力」の存在である。将来を見据え、改革を求める立場からすると、この連中はまさに「悪の枢軸」そのものであり、こいつらをどう排除するかというのが改革の課題そのものになる。しかし、実際にリストラクチャリングなど、構造改革に関わる作業を経験した人ならわかると思うのだが、こと現代の日本においては、筋金入り、原理主義的な意味での守旧派というのはほとんどいないのである。「さあ改革するぞ、かかってこい」とばかりに立ち向かおうとしても、守旧派としての主張は何も返ってこない。

そういう守旧主義者がいて、さらにそこに強力な頭目でもいれば、それなりに好敵手となり、良い勝負になるはずだが、あにはからずしてそんな人はいない。いるのは、変化するのがおっくうな人達、変化に対して自分がどう振舞えばいいのかわからなくて右往左往している人達ばかりだ。だからこそ、何か主張があるのではなく、あたかもかつての社会党の「牛歩戦術」のように時間を引き伸ばすだけの「抵抗勢力」となるのである。彼らにはなにも主義主張がない。だからこそ、今起こっている変化の状況に対して自分がどう振舞っていいかわからない。

結局、今「守旧派」「抵抗勢力」と言われている人の多くは、確信犯としての守旧派ではなく、要は自分の置かれている立場や状況がつかめない、つかむ能力のない人達だ。もっとはっきり言ってしまえば、物事の理解能力がない、アタマが悪い人達でしかない。そもそも人間というのはキャパシティーがあり、自分の能力以上のコトについてはそれを計測することができない。だからこそ、目の前で何かが起こっていても、それに対してどう振舞えばいいかわかる人間と、わからない人間の差が生れてしまう。そう考えれば、すでに彼らは実はある種の犠牲者である。実に可哀想な人達、哀れな人達なのだ。

こういうことを目の当たりにすると、人間の能力の差というものをつくづく感じる。真面目で堅物なだけでも、それなりに生きてゆけるやり方はどこかにあるはずだ。しかし、そういう人は、生き馬の目を抜くような競争原理に基づくビジネス社会には向いていない。そういう環境で要求される能力を持ち合わせていないからだ。そういう、本来、責任のあるポジションや、判断を伴うポジションにしおう能力を持っていない人達を、それが要求されるポジションにつけてしまう。まさに、年功序列型の人事の犠牲者なのである。

このゆがみは、昭和後期の高度成長期にその原因を求めることができる。右肩上がりの高度成長期なら、そもそも判断しなくても、責任を取らなくても良かった。何も考えなくても、市場のベース自体が拡大基調なので、波に身を任せるだけで市場成長率レベルの拡大は達成できた。多少判断に失敗しようが、結果オーライで切り抜けられた。そんな時代のほうがイレギュラーなのであり、いつまででも続くわけがない。実際、日本経済の歴史を振り返ってみても、高度成長期ほど無責任なマネジメントで済んだ時期はない。

今となっては、世の中のビジネスマンのほとんどが、「高度成長期しか知らない」世代となってしまった。だから誤解が起こっても仕方ないのかもしれないが、「サラリーマンは気楽な稼業」が常態であり、日本では昔からそうだった、と思っている人のなんと多いことか。決してそんなことはないのである。戦前のホワイトカラーといえば、それなりにステータスの高い階層だった。それは、それ相応に責任も重い仕事だったからだ。ましてや経営者となれば、能力も人格も要求され、紳士でなくては勤まらなかった。官僚や軍人は、勉強さえできれば「大衆=顕教徒」でもなれたが、経営者は「エリート=密教徒」でなくては勤まらない時代が長く続いていた。

それが崩れたのは、戦前の軍需景気で軍需産業が雨後の竹の子のように成長し、いわゆる「成金」経営者やサラリーマン社長が登場してからである。ここでもまた、戦時中のフレームワークが戦後のスキームを決定した事例を見て取れる。とにかく何事につけても、日本においては高度成長期がおかしかったのだ。もともと日本がおかしかったわけではない。そして、守旧派、抵抗勢力というのは、高度成長期のスキームしか知らず、それ以外のスキームは考えられないし対応もできないという人達なのだ。元に戻すという意味では、改革派のほうが「本来の資本主義のあり方に戻す」という意味では、余程保守主義である。

「守旧派」「抵抗勢力」に対して、改革を強要することは、元来彼らが持っていない能力を発揮することを、彼らに対して求めていることなのだ。それは、彼らにとっても、我々にとっても決してハッピーではないだろう。そう考えれば、大事なのは「彼らを楽にしてあげること」なのがわかる。「あんたはバカだ、努力して利口になれ」ってのは、余りに残酷だ。「バカはバカなりの幸せ」ってモノがある。それをあてがってあげ、幸せに余生を暮らせるようにすれば、抵抗すべき理由などなくなる。「いいんだよ、そこにいて」「いいんだよ、そのままで」。バカを殺すにゃ、この一言でいいのである。

(02/03/01)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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