21世紀に求められる人材と親の役割






いまや日本社会のあらゆる局面で求められている「構造改革」。それには、「守旧派」「抵抗勢力」がつきものである。しかき改革の目前の敵として現れてくる「守旧派」「抵抗勢力」は、決してイデオロギー的なバックグラウンドがあるワケじゃないし、確信犯としての「守旧派」ではない。これはリストラクチャリングに関わったことのある人なら、実感として理解できると思う。彼らは、決して「抵抗」しているのではなく、単に現在の変化しつつある状況に対応する能力がなくて、慌てふためいて右往左往しているだけだ。自動券売機、ATM機の前であたふたして、長い待ち行列を作り出してしまう老人と同じだ。

彼らの不幸は、そもそも能力がないのに、能力を求められてしまう状況に直面してしまったことにある。日本の企業においては、高度成長期では、中間管理職はもちろん、社長さえも、特に能力を求められることがなかった。本当は求められていたのだろうが、右肩上がりだったので、それを声高に要求するまでもなく利益が上がっていた。社員は誰でも良かったし、マネジメント能力がなくても良かった。これが「サラリーマンは気楽な稼業」を言われた所以である。このように終身雇用、年功型の本質は、能力が問われない状況、能力が求められない状況にある。

私が身をおいている広告業界は、そんな日本では珍しく、能力差がはっきり現れる職種である。ソフト・コンテンツ関連というのは一般にそういう傾向があるが、CMの企画は誰にもできるものではなく、その中でも「ヒットCM」を作るには極めて才能が求められることは、直感的に理解できるだろう。CMに限らす、広告とはアイディアが勝負の世界だ。盛んに行なわれている、懸賞やプレミアムキャンペーンも、いかに面白く、みんな欲しがる企画にできるかというアイディアの勝負だ。おまけにネタは一度しか使えないと来ては、常に切磋琢磨の競争になる。評価は厳しいし、すぐに評価されてしまう。形の上では悪平等で同じ給料でも、能力差ははっきり認識している。

そういう競争に揉まれている視点からすれば、クライアントからオリエンテーションを受けた商品が、ヒット商品になるかはどうかは一目でわかる。オリジナリティーに富み付加価値を持つ「商品力を持つ商品」か、単なるモノまねで価格破壊以外に競争力を持たない商品か、一目瞭然である。もっと言えば、それを生産したクライアントの体質が、「勝ち組」か「負け組」かということもすぐに見えてしまう。しかし、こと日本の消費市場においては、今までは売れる売れないと商品力とはあまり相関がなかったし、それゆえ商品力の有無がある種の企業の格付けと結びついてキチンと評価されることもなかった。

それは企業経営が売上高中心、シェア中心であり、商品力がなくても押し込めば業績をあげられたからである。高度成長期の消費者はモノに飢えていた。何でも店頭に出しさえすれば飛ぶように売れた。ニーズに比べて常に生産力が下回っていたから、コピー商品でもウェルカムだった。それゆえ消費者を見下し、バカにする体質を身に付けたメーカーも多かった。しかし街にはモノがあふれ、競争原理の市場になった。こうなると他と違うモノでなくては売れない。消費者から支持される、画期的な魅力がある商品を作る努力をしなかったところには、ここでしっぺ返しがくることとなる。

スーパーの店頭などで、実際に買い物をしている場面を思い浮かべてみればわかるだろう。同じ石鹸・洗剤といったトイレタリー商品でも、スーパーの安売り、目玉商品でなくては買わないものと、決して安くなくても、その内容や使い勝手を考えると買いたいモノがあることがることを実感できると思う。そして、目玉商品でしか買わないブランドと、高くても買うブランドの違いも実感できると思う。ここに至って、付加価値の高いモノを作れるメーカーと作れないメーカーの差が歴然としたということだ。当然前者が「勝ち組」であり、後者が「負け組」ということになる。

こういう時代では、企業も「人の質」の勝負となる。当然、求められる人材も変わってくる。それはヒット商品を生み出す才能としての「天才」である。付加価値とは天才のヒラメキが生み出すものである以上、ヒットの陰には天才の存在が不可欠である。人間の能力とは「才能×努力」である。この時代、才能のない人間がいくら努力しても無意味だ。また、才能のある人間といえども努力して切磋琢磨しなくては負けてしまう。秀才の時代だった産業社会はもう終った。昨今の官僚のていたらくを見れば、秀才とは勉強だけできても何も生み出せない人間であることは明らかだ。

これからは匿名の人間、代替可能な人間では意味がない。それはアウトソーシング、ITで充分対応できるからだ。たとえばイチローと中田が互いの役割を交換できないように、各分野での一流の人間とは代替可能ではない。そして、自分なりに一流の分野を持たないと、これからの世の中では通用しない。だからといって恐れることはない。人間には生れながらに「その人ならでは」の長所がある。そういう運命を背負って生れてきているのだ。だから、そこを伸ばして活躍することが、人として生れた役割でもある。素直に他人にない自分の長所を見つけ、それを伸ばせばいい。

その際ポイントとなるのは、「安定を求める人に、成功はない」ということだ。これからの時代は、ハイリスク、ハイリターンの時代だ。いや、元来人間社会はそうなのである。そうでなかったのは、産業社会末期の高度成長がある種のバブルとなり、みんながそのおすそ分けに預かっていただけだ。金利を見ても、高度成長期とは違うことがわかるだろう。そもそも給与生活者は安定した仕事ではない。20世紀のはじめにはそう思われていた。それが変化し、「寄らば大樹の陰」が常識になったのは、たかだかこの半世紀程度のモノである。名プレーヤ、名監督ならずという例もあるように、マネジメントも才能であり、向かない人が多い。マネジメントの才能のある人なら会社員もいいが、そうでない人はヤメたほうがいい時代なのだ。

そういう時代の親としての役割は、ストレート子供を見つめ、その子ならではの良いところを見出すことにある。親は子供の一番近くから、一番多く見るチャンスがあり、最も客観的にその人格を見れる場所にいる。しかし、それができている人は少ない。それは、親子というのが、最も思い込みを前提に見てしまう相手でもあるからだ。そのためには、子供との間に独立した別の人格という視点を確立し、ある程度の距離感を保ちつつ、子供を客観的に見て、客観的に能力を判断することが要求される。自分がこうしたい、こうあって欲しいというコトを、子供に押し付けてはダメだ。

これは、企業において管理職、マネジメントに求められる視点とも共通している。子供を客観的に見られれば、彼もしくは彼女の本当にいい所、本当に個性的なところを見極めることができる。そうなったら、その個性的なところだけを伸ばせばいい。そしてそれを伸ばすためには、惜しみなく支援すべきだ。こういうと、一部分だけがトンガった人間になってしまうのではないか、と疑問をはさむ向きもあるだろう。しかし、心配にはおよばない。一芸を極めた人は皆人格者である。一芸を磨く修行の過程では、人格も磨かれるからだ。なにも恐れることはない。

そう考えると、まず必要なのは親自身が「自立・自己責任」で行動できるようになることだ。自分でできないことを、子供に期待しても始まらない。親の背中を見て子供は育つ。親の心の中まで子供は見透かしている。自分が努力しない人が、何を言ったところで説得力はない。自分ができないくせに、子供にやれといっても無理だ。自分が勉強したくないなら、子供も勉強したくない。自分の夢を子供に託すのは最悪だ。人生はやりなおしが効く、夢を託すぐらいなら自分がやるべき。日本人は余りに「甘え・無責任」だ。子供に夢を託すのも、一種の「甘え・無責任」といえる。構造改革とは、「甘え・無責任」から「自立・自己責任」への変革である。そう考えれば、今求められているものも、「家庭の構造改革」ということができるだろう。

(これは、筆者が先日都内某所で行った講演の要約である)


(02/03/08)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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