貧しきことは卑しきこと哉







ブッシュ大統領の妄言ではないが、「悪の枢軸」という言葉はこの男のためにあるようにマスコミがはやし立てる鈴木宗男議員。確かに報道される数々の所業は、文字通り言語道断ではある。しかし、そういう表面的なスキャンダラスさにばかり目を奪われていれしまうと、もっと重要なポイントを見逃してしまう。それは、彼のある種の自己規定に関わる問題である。すなわち、彼の出身の「貧しさ」を必要以上に強調してきた点だ。こういう成り上がりのバイタリティーの強調は、ある種のバブル紳士や詐欺師、マルチ商法やインチキ教祖にも共通するものである。そう思ってみると、「貧しさ」をアピールするメンタリティーには、どことなくウサンくさい臭いが立ち込めていることに気付く。こういう連中は、やはり「何かある」のだ。

明治期に日本の産業社会が確立して以降、高度成長期を支えた昭和一桁生まれの世代までなら、確かに「不幸にして家が貧しく」ということもあったかもしれない。だからその時代のメンタリティーならば、「貧しかったけれども、高潔な意志を持ち、努力して立身出世した」というプロセスも評価されただろう。それは、皆が皆貧しかったから成り立った価値観である。だからそれが通用したのは、「皆が豊かな社会」になった高度成長期以前のみだ。そういう意味では、高度成長期はまさに転換期として、親は「不幸にして家が貧しく」的なメンタリティーをまだ持ってた反面、子供は「世の中とは豊かなもの」であることを前提として育ってしまった時代である。問題はそこにある。

高度成長期に文字通り「成長」した、団塊の世代以降の世代についていうならば、世の中がなべて豊かになって行くこの時代にあっても家が貧しいということは、高度成長の恩恵に浴せない何らかの理由があったということに他ならない。それは、「貧しい」彼等を育てた両親は、豊かになるチャンスはあったがそれを活かせなかったのか、あるいは豊かになるチャンスそのものの存在に気付かなかったのかどちらかということになる。厳しい言い方かもしれないが、高度成長期という「蜘蛛の糸」が降りてきた時期に、それを活かすことができなかった人達ということだ。そして豊かになれなかった理由は、社会の側でなく、当人たちの怠慢や能力不足に求められるべきものということだ。

そういう意味では、高度成長期にこそ、豊かな社会としての日本社会の行動や価値観の基準を確立するためのパラダイムシフトが行われるべきだったのだ。皆のフトコロが豊かであるコトを前提に、人間性や心の余裕を元に、真の豊かさを峻別する価値観。お金がいくらあっても、それだけでは「立派な人」と評価されない価値観。日本の不幸は、高度成長期の時点ですでに悪平等的、社会主義的な「大衆」観が確立・共有されていたがために、本来なくてはいけない人間性の評価軸を社会に導入し得なかったことにある。心の豊かな人間は誰でもなれるわけではない。しかし、成金には誰でもなれるチャンスがある。悪平等社会は、ここにも悪平等の導入を求めたのだ。

そもそも「心の豊かな人間」というものは、大人になってからいくら努力してもなりきれるものではない。大人になってからできるのは、奢侈におぼれず、できるだけストイックな生きかたをして、心の貧しい人間が陥りがちな煩悩地獄に落ちることを防ぐことだけだ。どんなに禁欲的な生活をし、どんなに世のため人のために尽くしても、それで「心の豊かな人間」になれることはない。しかし、巨万の富を得てもなおそういう自律的な生き方をしていれば、それはその子供達以降の世代に与える影響は大きい。そういう親の背中を見て育った子供達は、親よりは紛れもなく「心の豊かな人間」になっているはずだ。

そういう意味では、子供が受け継ぐのは遺伝子と資産だけではない。ストイックな生き方、自らを厳しく律する生き方をしていれば、心の豊かさも受け継ぐことができるのだ。「家柄」とは元来、こういう「心の豊かさ」を子孫に育み・伝える仕組みを持っているかどうかということである。こういう世の中でも、キチンとこういうメカニズムを温存し、伝えている人達もいる。その反面、余りに多くの人達が、「心の豊かさ」にはこういう構造的な問題があることに気付いていない。いや、「心の豊かさ」というものが大事だということすらわかっていないのだ。この面でも日本社会は、「心の豊かさ」がわかる雅な人と、「物質的豊かさ」しか知らない大衆を、大きく二つに階層化してしまっている。

政治でも経済でも何でもそうだが、人を引っ張ってゆくリーダー足りうる前提には、「ノブリス・オブリジェ」に代表されるような自立・自己責任で行動するリーダーシップが必要である。このような精神性は、「心の豊かさ」があってはじめてできることである。徳のある雅な人であって、はじめて「心の豊かさ」を持ち得る。「心の豊かさ」があってはじめてリーダー足りうる。だが、少なくとも組織とは文鎮型かピラミッド型である以上、フォロワーよりはリーダーの絶対数は構造的に少ない。「心の豊かさ」を持っている人も構造的に少ない。ここにきっちりと対応関係を持たせることができるなら、清く強い組織を確立することができるが、多数派であるフォロワーの論理を前提に組織を組み立てては、明確なリーダーシップを持っている人材がリーダーにならない可能性のほうが高くなる。

何のことはない。鈴木宗男議員の問題もそうだし、雪印事件もそうだし、今日本社会に連続して起こっている「社会構造に根ざした事件」の数々は、少数である「心の豊かな」人々と、多数である「心の貧しい」人々との軋轢の結果である。高度成長期においては、右肩上がりの経済の陰で、文字通り「金で落とし前をつけ、帳尻を合わせてきた」。それができなくなった今、器もないのに地位だけある人達は、文字通り「裸の王様」である。それが事件として露見しているに過ぎない。彼らが特殊なのではなく、当り前の大衆の姿である。もしかすると彼らが犠牲者なのかもしれない。そういう意味では、問題なのはそういう中身のない卑しい人達にも、同じ「人権」を与えてしまった、20世紀の民主社会、大衆社会のあり方のほうだ。これも「密教・顕教」の問題に行き着くが、これがこれからの社会のあり方を考える上では、絶対に避けて通れない原点なのだ。


(02/03/15)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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