ネットワーク時代の帰属意識






数々の意識調査の結果からもわかるように、日本人はおしなべて国家への帰属意識が薄く、「地域」と「人類(または世界)」への帰属意識が高いという、世界でも特徴的な傾向を持った国民である。これは、島国という日本の持つ地理的な特徴と、そもそもその地理的特徴を元に「鎖国」していたエリアを、そのまま「近代国家」のエリアと定義しなおさなくてはならなかった歴史的、政治的経緯に起因すろと考えられる。この意識のあり方は、結果としての事実であり、それがいいとか悪いとか、どうあるべきだとか言う対象ではない。しかし、それが今後どう変化してゆくかを考えることは意味がある。

それを考える場合に重要なのは、かつては帰属意識を持ち得る集団というものが、物理的に限られていた点にある。その代表的なものは、地域的な近接性に基づいて作られる集団、血縁や同窓会など「ルーツ」に基づいて作られる集団、企業等の組織の目的性に基づいて作られる集団などである。これらの集団ではいずれにしろ、直接顔を合わす機会の濃淡により、集団メンバーと非メンバーが区別される。そういう意味では、あくまでも帰属意識を持ち得る集団は、直接的、物理的な関係性をキープできる構造を持っている必要があった。それは、同じ意識や価値観、目的性などを共有するためには、物理的な空間や時間を共有する必要があったからである。

しかし、ITテクノロジー、ネットワークテクノロジーの進歩は、ここに大きな変化をもたらした。インターネットの代表されるワン・トゥー・ワンのコミュニケーション手段としてのネットワークは、人々の間で物理的な空間や時間を共有しなくても、同じ意識や価値観、目的性などを共有するコトを可能にした。ネットワーク技術の社会に与える影響については、70年代からいろいろ言われてきたが、つきつめて考えると、本当に革命的な影響、いままでになかったパラダイムは、この「ヴァーチャルな共同体の形成」ということだけであり、あとの変化は「改良」「改善」に過ぎない、と言うことさえできる。これは、いつも顔を合わせる「集団」と、最も観念的な「人類」というような集団しか帰属意識を持たない日本人にとって大きな影響を与えることが容易に想像できる。

そう考えてゆくと、70年代から顕著になってきた「コミュニケーションメディア依存症」的な生き方がなぜ日本人に広まったか、を理解することができる。高度成長の成果が行き渡った70年代になると、「下宿の苦学生」といった類型はごく一部を除いて姿を消した。東京の大学は勉強より楽しみに行くところとなり、そこでの生活もそれなりの満足感を求めるようになった。そういう中で、部屋付きの風呂より、テレビセットより、何よりも必需品とされたのは電話である。友達と長電話することは、何よりも充実して楽しい娯楽だし、その仲間には入れないことは、即、楽しい大学生活をエンジョイできないことを意味したからだ。

70年代後半の学生生活で、そういう「長電話」し合った絆は、本来の授業やゼミの関係以上に濃く、20年以上を経た今でも、強い共同体意識をキープしている例も多い。地域でも職場でもなんでもないが、明らかに共同体は存在するし、この帰属意識は極めて強い。この例からもわかるように、メディアによる「ヴァーチャルな共同体」は、実際に顔を合わす共同体と同様、あるいはそれ以上の存在感を、その構成員の間で共有しうるものなのだ。こういう「コミュニケーションメディア依存症」の傾向は、携帯電話、インターネットmail等々、ツールが増加し、高度化すると共に、より広く、強いものとなって今に至っている。それなら、その影響も社会的に無視できないものとなっているのではないか。

日本での携帯の普及と利用のされ方には、独特のものがある。さらにインターネットの利用でも、極めて日本特有の形態がある。それらは、仲間と非仲間を分け、仲間が集まってヴァーチャルな共同体を作るためのツールとしてのメディア利用としてくくることができる。このままネットワーク社会化が進めば、「人類」の対極として等身大の帰属意識を持つコミュニティーが、地域等から「ヴァーチャルな共同体」になることも充分考えられる。これは、メリットもデメリットもあるが、こと社会のクラスタリングという意味では、ポジティブにとらえるべきではないかと思う。

リアルな共同体では、集団がどうしても「イヤなヤツ」「気の合わないヤツ」をある程度含んでしまうため、100%の帰属意識というものは持てない。ある程度「仕方ない」という我慢が必要になる。しかしバーチャルな共同体では、そういう遠慮は要らない。その中では思いっきり羽根を伸ばせるし、思いっきり衣を脱いでリラックスできる。イヤ、そうしたいから、それができるからこそ、人々は「ヴァーチャルな共同体」を求めつづけ、それによってメディアテクノロジーが進歩してきたと言えるだろう。こういう面からも、基本的な帰属集団のヴァーチャル化は不可避である。

こうなると、社会構造が大きく変わる可能性を含んでいる。すなわち、各クラスターが集団毎にタコ壷的に閉じた「ヴァーチャルな共同体」となり、社会全体としてはそれらの間でのインタラクションを最小限に押さえるような構造である。もちろん、相対多数のクラスターとして、いつも言うように「産業社会・大衆社会型」の集団があることは確かだろうが、ある種のカルト共同体、オタク共同体の集団として社会が構成される仮説である。これは突拍子もないコトにも見えるが、意外と現実に起こりつつある事象とも整合性が良い。そこにいつ行き着くかはさておき、人々が「楽で気持ちいい暮らし」を求めている以上、いつかはそこに行くし、技術の進歩や改良も、そこに向かって進んでいるということが言えるだろう。


(02/03/22)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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