奴隷の自由







日本人ほどモラリティーの低い国民があるだろうか。過剰に「他人の目」を気にする傾向が強いだけに、基本的に知遇のある他人からチェックが入る可能性がある環境にある限りは、タテマエにそってかなりキチンと行動する。しかし、他人が見ていなかったり、チクられる心配がない環境になると、たちまちホンネをさらけ出し、傍若無人な振舞になる。この傾向は江戸時代アタりから全然変わっていない。20世紀の前半はもっとモラルが高かったという声もあるが、それは警察をはじめとする管理機構が相対的に充実していただけのことである。その証拠に、海の外に出ていった人達のやっているコトをみれば、戦時中の軍隊も、戦後のビジネスマンも、その勝手気ままさは全く変わっていない。

こういう人達だからこそ、「自分達の権利」にはうるさく、過剰なまでにそれを主張するが、「他人の権利の侵害」や「権利に伴う義務」については、見て見ぬフリをすることになる。貰えるものは、本来貰える以上に貰っておく。その反面、自分から出さなくてはいけないものは、必要以下に押さえる。権利とは、おいしい思いをするためのもの。自由とは、周りを気にせず勝手にできること。ここに、日本人の権利意識、「自由」感の特徴が現れている。混んだ電車の中で、飲み食いしたり、化粧したりする若者をとがめる声もあるが、それは侵略先で略奪や強姦をやりたい放題やった一部の旧軍人と似たようなものだし、そういう人達の残した被害に比べれば、大したものではない。こういう資質こそ、日本人の大衆の本質なのだ。

そうである以上、それを改めろとか、キチンとしろとか、本人のマインドアップを図って是正しようと思っても、これは無理というものである。そういう資質の人達であるコトを前提に、どうやったら社会が円滑で安全に運営できるのか考えなくては意味がない。そのためには、社会が担保する「権利」や「自由」のあり方のほうを考え直す必要がある。日本においては、人権や自由の中身が過剰なまでに拡大解釈されている。それだけでなく、本来アプリオリには与えられない権利までも、お上が保証してくれるかのごとく考える風潮が一般的になっている。ここにメスを入れることが、最も確実で効果的な処方となるだろう。このためには、長い歴史に裏打ちされた西欧の権利意識が参考になる。

もちろん、最もベーシックな意味での生存権的な人権は、人間である以上アプリオリに持っていることは言うまでもない。それさえも否定しようというものでは決してない。そうではなく、努力して獲得してはじめて行使できる権利、義務と責任を果たしてはじめて行使できる権利というものがそれとは別に存在し、これは全ての人に自動的に与えられるものではないことを、社会として明確にする必要がある。つまり西欧においては、「甘え・無責任」な行動をする人にも与えられる基本的な「人権」と、「自立・自己責任」で行動できる人にだけ与えられるオプショナルな「人権」とが分けて考えられている。しかし、日本で自動的に与えられる権利のかなりの部分が、後者の「人権」に属しているのである。

これは、近代になり西欧式の考えかたが導入される際に、ご都合主義的にお手盛り解釈がなされ、時代とともにより安易な方へ流れていった結果である。しかし幸いなことに、その多くが社会の制度やルールという形で実施されている。そうである以上、もう一度キチンとした制度やルールに作り直すことで、あるべき姿に近づけることは可能だ。たとえば90年代末の金融危機以降、それまでと変わって、ハイリターンならハイリスクだし、ローリスクならローリターンという意識が定着した。リスクテイキングをしないものにはリターンはないという当り前の原則が、やっと日本でも受け入れられたということである。これも、ある種の正しい権利意識に近づいたと見ることができる。このように、制度を変えてしまえば、意識を変えることもできる。

義務や責任を果してはじめて、権利や自由が与えられる。当り前のコトが行なわれていないのが、日本という国なのだ。日本人にはあまり知られていないが、古代の市民と奴隷の違いは実はここにある。古代の奴隷は近世以降の奴隷貿易の奴隷とはちがい、鎖でつながれていたわけでも、鞭で強制されたいたわけでもない。義務や責任を果さなくてはいけないのが「市民」であり、無責任でいられたのが「奴隷」なのである。義務や責任の対価としていくつかの権利が与えられる「市民」よりは、その「市民」に全て責任を負わせ、言われた通りしていれば好き勝手にできた「奴隷」の方が、今の日本人的な意味では余程「自由」人なのだ。それならば、そこで差をつければいい。「市民の自由」が欲しい人は義務を負う。「奴隷の自由」が欲しい人は、何もしなくていい。

今求められている構造改革は、掛け声や上部構造の改革だけで解決する問題ではない。それが「密教対顕教」、すなわち「自立・自己責任」の人々と、「甘え・無責任」の人々の構造的対立に根ざしている以上、その解決なくてして達成できない。そういう意味では、この両者の間で、与えられるチャンス、行使できる権利に差がつくことが大事なのだ。そして、それはリスクテイキングの改革が達成できたように、社会システムのほうに手を加え、両者の間で差がつくようにしてしまえば、おのずと解決できることなのだ。そして、それは「甘え・無責任」な人にとっても住みやすい社会になるだろう。選挙に行かないことが何か悪いことのように言われ、理由をつけて言い訳しなくてはいけない世の中より、そういう興味のない人には選挙の義務自体がない世の中のほうがずっと気楽に過ごせるはずだから。


(02/03/29)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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