手段最適






日本の企業や組織の問題点を語るとき、「部分最適と全体最適」の違いをベースとして語られることが多くなった。ある小単位の組織やバリューチェーンの一部分だけを取り出し、その範囲で最適化を図る戦術レベルの最適化。こういう「部分最適」には、日本の組織は長けているし、日本の組織人というのは、特に命令されなくても「部分最適」化を図ってしまう。しかし、組織全体やバリューチェーン全体の最適化という、戦略レベルの最適化となると、これを行なうモチベーションも機能も極めて劣っている。よって、日本においては「全体最適」を阻害するほどに「部分最適」が進み、結果として全体のパフォーマンスを悪化させているというものである。

たとえば企業経営において、この問題は顕著である。右肩上がりの高度成長期には、特に全体最適を図らなくても、部分最適だけでも成長が達成できたので、この構造的問題がクリティカルにはならなかった。しかし、世界経済が安定成長ベースに移ると、全体最適を図らなくては利益を確保することすら難しくなる。だから、「失われた10年」を語るとき、日本の最大の問題として、「戦略欠如」「全体最適不能」が問題となる。しばしば、この問題は日本の企業や組織が持つ制度や習慣の問題として語られる。しかし本当にそうなのだろうか。この問題の裏には、単に制度や習慣にとどまらない、日本人の大衆が持っているメンタリティーや志向性の構造的問題がひそんでいるのではないか。

というのは、日本人一人一人の行動を見ていった場合、「目的最適」のプロセスを取れず、「手段最適」のプロセスに走りがちという特徴があるからだ。本来、手段というのは目的があってはじめて意味のあるものである。文章を書きたいというモチベーションが合って、はじめてワープロソフトの操作を習得する意味がある。文章を書きたいと思わない、あるいは文章を書く必要性がない人間にとっては、ワープロソフトの操作の習得など、全くもって時間の無駄である。余談だが、生活行動調査のデータを見ると、鉛筆やボールペンであっても、名前や数字のメモ書き以外全く文字を書かない人が全体の1/3ぐらいいる。そういう文章を書かない人には、どうやっても構造的にワープロソフトなど売れるわけがないのである。

ところが、ソフトの操作の習得自体を目的としてしまうところに日本人の「手段最適」のおかしさがある。使う目的がない人が、使いかたを学ぶ。こんな滑稽なことはない。そういう自己矛盾を抱えているからこそ、結局使いかたを覚えられなかったり、覚えてもすぐ忘れてしまうことになる。そもそも、習得した以降に使う機会もないのだから、いずれにしろ時間の問題でしかない。こういう話を聞いて「おかしい」と思ったあなたなら、充分国際人として通用する素養を持っている。「おかしい」と思えない人は、いくら英語力があっても国際人にはなれない。そう、国際人というとすぐ英語の話になってしまうこと自体が、「手段最適」の悪い例なのだ。

これが行き着いてしまって、滑稽なまでの自己矛盾を示しているのが、芸術関係の世界である。たとえば音楽。本来音楽家にとって楽器を習得するのは、音楽で自分を表現したいという欲望があり、それをかなえるための手段として楽器をプレイしなくてはならないからこそ、手段として習得するのである。ところが、日本では楽器を器用に奏くことに最適化するモチベーションだけで、音楽の道に進んでしまう人が多い。表現したいモノがない、あるいはわからないのに、テクニックだけは人一倍ある。そういう人が「音楽家」とされてしまう。こんなのも滑稽なジャパン・スタンダードの一つだ。茶番でしかない。クラシック系のプロで顕著だが、この傾向はアマチュアでも、LM系でも同じように見られる。

ある意味では、LM系のほうがゆゆしい問題かもしれない。クラシック系においては、オーケストラという形式があり、頭数をそろえるだけの存在も、一概には否定できない。もちろん、一人一人の個性が際だったミュージシャンで構成される海外のオーケストラの持つ迫力や存在感といったモノに比べれば、つまらないのは確かだ。しかし、それでも員数あわせが必要な場合もある。しかしLM系では集団戦ではない分、自分として表現したいモノを明確に持っていない人がプレイする場合、「コンテンツ」を借りてこなくてはならなくなる。ここに起こるのが、モノまね、パクりの横行である。テクニックがはあるが、自分の心の中身が空っぽであるがゆえに、既成の中身をそのまま持ってきてしまうのだ。

こう見てゆくと、戦術・手段だけで、戦略・目的がないというのは、日本人大衆の人間性に根ざしているものであることがわかる。中身がなくても、手先があれば評価されてしまう。ビジョンや戦略がなくても、言われたことをうまくこなせれば、それで評価されてしまう。それは、日本人大衆の持っている属性が、20世紀末期の超大衆化工業社会に、文字通り「最適化」していただけの偶然である。そんな時代の、今では通用しない昔の成功話をあり難く取り上げるNHKの番組がヒットしているようだが、そんなノスタルジーに甘えるしか能がない人達だからこそ、今のていたらくを生んだのではないか。今求められているのはその反省ではないか。ここは一つ、考えを改めるべきときだろう。

(02/04/05)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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