売れる秘訣






21世紀を迎えて、20世紀を大衆社会型の「マス・マーケティング」が通用しなくなった最大の理由は、それがあくまでも産業社会的な「生産ドリブン」というスキームをベースとしていた点にある。ニーズは常にあり、それは生産により喚起される。このパラダイムは、産業社会の基本テーゼとして今までみんなが信じていた。そして、マーケティングも基本的には、このパラダイムを是認することを前提として成り立っていた。しかしよく考えればわかるように、この考えかたは「こうだったらいいな」という生産者のご都合主義的なものである。それが偶然成り立っていたところに、産業社会のラッキーさがあると同時に、その限界もある。「20世紀というのは、このようにお気楽で甘い時代だった」ことを自覚できるかどうかが、今問われているのだ。

一言でいってしまえば、そのテーゼは「余りに貧しく、余りに何もない」状況からスタートしたからこそ、あたかも「真実」であるかのように見えただけである。初期値が0なら、どんな小さい値であったとしても、実体を伴う普及率が出てきただけで、伸び率は無限大である。全てはこの数字のアヤでしかない。何もなかったからこそ、常に需要があり、生産さえすれば需要は無限に生まれるという錯覚に陥った。そして、何もなかったがゆえに、社会には潜在的な需要があふれており、大した努力をすることなく、新たな市場を獲得できただけのことだ。それは本質的ではなく、そういうめぐり合わせが運良くやってきただけのことだ。だからこそ、そういう「神風」に慣らされた人達は、ひとたび舵取りが問われる状況になると、成す術を持ち得ないことになる。

現在の日本に起こっているいろいろな産業・経済上の問題の多くは、この産業社会にオプティマイズしすぎたことによって引き起こされている。それは、20世紀後半の日本においては、高度成長と呼ばれているように「余りに貧しく、余りに何もない」状態から、社会全体が飽和するまで、驚くほど短期間で推移してしまったコトに起因する。貧しい状態を自ら体験した人がまだ現役のまま、もはや潜在需要があてにできない安定成長社会に突入する。その状態で社会や企業のトップは、「余りに貧しく、余りに何もない」状況での成功体験しか持っていない人達が居残っている。これでは、ウマくいくわけはない。「失われた10年」と受身形で語られることが多いが、よく考えると無責任な言い方だ。こういう構造を考えれば、「失った10年」「失わせた10年」と呼ぶべきだろう。

この40年程度の短い期間の間に、ニーズに関する構造がどう変化し、どうマーケティングが変わったのか。いくつかの例を前提に考えてみよう。一つの典型的な例は、コミュニケーション・メディアのマーケティングだろう。これはテレビのようなエンターテイメントでも、電話のようなパーソナルメディアでもどちらでも見出すことができる。まずはエンターテイメント・メディアである。育った地域や家庭環境によっても多少左右されるが、現在40代前半以下の人なら、物心ついたときには家の中にテレビがあり、ヒマなときにはテレビをつけているのが当り前であったと思う。その一方で、それ以上の年齢層の人間にとっては、テレビが家に入ってきたときの衝撃を原体験として覚えているはずである。

その「原体験」を持っている層は、それゆえにテレビの存在を過大評価しがちである。これがニューメディアブーム以来何度も繰り返されてきた、「新しいメディアへの期待」の実態である。それらの層がマネジメント権を握っていたからこそ、企業や官庁が過剰反応を起こしたまでのことである。その一方で、そういう原体験を持っていない層は、現在でも需要に対して充分なコンテンツの供給があり、これ以上コンテンツが増えても、そんなニーズがないことを本能的に知っている。段々とそういう層が企業や組織の中で占める割合が増え、意思決定にも関わる機会が増えてゆくとともに、かつてのような過剰なメディアに対する期待も減ってきている。

電話のようなコミュニケーションメディアもそうである。これは40歳ぐらいが分水嶺になると思うが、それ以上の世代では「電話とは家にあるもの」であったのに対して、それ以下の世代では「電話とは個人で持つもの」が最初から常識である。これはまた「電話とは用事でかけるもの」と「電話とは暇つぶしにダベるもの」という利用法、メディア観の違いとも一致している。後者の世代にとっては、固定電話が携帯電話になれば、暇つぶしのTPOが格段に拡がるゆえ、爆発的に普及するだろうコトも容易に理解できる。携帯電話がニーズを拡げたのではなく、あくまでもニーズはあった。しかし、それを意図してマーケティングしたのではなく、偶然アタってしまってヒットになったのが現実である。

同じように、若者は基本的にクルマに興味がないと言う事実をどう理解するかも、なかなか世代間の踏絵になっていて興味深い。団塊Jr.の世代にとっては、クルマなんて親の世代ですでにみんな持っているし、地方では一人一台になっているのが常識である。こんなコモディティーの極みのような商品に、思い入れを持てと言うほうが酷である。こう考えてみればわかるだろう。家電の創成期なら、「電気釜を持っている」「電気洗濯機を持っている」というのがステータスシンボルになっていたかもしれない。しかし、そういう時代を知っている人は、もうあまり多くない。若者にとってクルマは、そういう「電気釜」であり「電気洗濯機」なのだ。

「クルマがそれをもつ人にとっての記号である」というのは、クルマが少なく、クルマを持っていること自体がステータスだった時代の遺物である。そういう過去にとらわれている限り、若者にクルマを売るマーケティング戦略はたてられない。あるいは、もしそういう記号性を復活させたいのなら、そういうクルマの見方、そういうステータス性をどうやって新たに作るか、という戦略から考える必要があるだろう。潜在ニーズを期待するのなら、アプリオリに潜在ニーズがあるコトを前提とせず、自ら潜在ニーズを掘り起こさなくてはならないのだ。そこに気付かず、単に飢えていた時代の状況でしかない「若者はクルマに興味があるし、クルマはステータスシンボルである」ことを前提にしたマーケティングでは、物が売れるわけがない。

こう考えてゆけば、この状況を打破するのはそんなに難しいことでないことがわかる、いけないのは舵取りをしている人の先入観、アタマの硬さである。素直に消費者のニーズをみつめ、それにあわせて過剰な期待を抱くことなく生産、供給していけばいいだけのことである。こういう状況の中でも、最高益を更新し、安定した業績をあげている企業がある。それはこの当り前のコトが当り前にできているだけのことである。これだけヒントを貰えば、頭を切り替えられる人は充分切り替えられるだろう。そうすれば、こういう安定成長の中でも、充分な成果は間違いなく得られる。では、頭を切り替えられない人はどうするか、それはもう自分からお引取り願うしかない。後進に道を譲ればいいのだ。しかし、問題はそういう「能力の劣る」人ほど、自分が置かれている問題すら理解できないことが多いというところにあるのかもしれないが。



(02/04/12)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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