「モノ作り」の真実






今日本が包まれている沈滞感を打ち破るカギは強い「モノ作り」の復活にある、と日本の「モノ作り」を強調する論調によく出会う。一般論として「生産力が大事」というのは、誰も否定できるものではない。しかし、このような論点には決まってある種の視点が欠けている。それは、物理的に手を動かして行なう製作作業、エクゼキューションのレイヤーだけがモノ作りではなく、プランニング・プロデュースのレイヤーもモノ作りであり、もし「モノ作り」で日本経済を再興させたければ、重要になるのは後者のモノ作りであるという認識である。産業社会の飢えた世の中から、手先の作業という意味でのモノ作りでも事足りたかもしれない。しかし安定成長の世の中で受け入れられるモノをつくるには、アイディアが大事だし、それゆえ手先以上にアタマが重要になる。

この両者は、モノを作る上で欠くべからざる要素であることは間違いない。しかし、レイヤーが違う要素であり、コンピタンスとしても全く異なるため、混同してはならないものである。だが、日本においては、モノ作りにおけるプランニング・プロデュースのレイヤーの認識が甘く、未だにモノ作りとは手先の職人の問題としてとらえている人が多い。もしかすると、それはそちらのレイヤーでしか通用しないコンピタンスしか持ちえない人が多いから、意識的にそうしているのかもしれない。原因と結果がどちらにあるにせよ、モノ作りからアタマを排除し、手先の問題だけにしてしまうのは、モノ作りの矮小化を生んでいる。もしかすると、日本のモノ作りの競争力の減退の原因は、この「モノ作りの矮小化」にこそ求められるべきだろう。

しかしこの「矮小化」は、何もモノ作りだけにとどまるものではない。「縮み指向」とはよく言ったもので、本当に日本では本質から遠ざかって、手先のワザに矮小化してしまうものがなんとも多いものか。学問がそうである。壮大なヴィジョンや理論体系を構想するのが本来の学問ではないか。日本で評価されるように、実験や調査の手際の良し悪しを問うのは学問の本質ではない。同様にアートやスポーツの分野でも、でも手先の器用さがまず問われ、表現力のあるアーティスト、勝てる選手が育たなかったり、外国に流出することになる。これは軍隊でもそうだ。正面装備と正面での闘いだけしか考えず、補給や情報を軽視し、戦略や政治を軍隊の評価基準としない伝統。これもまた、手先への矮小化がもたらしたものといえるだろう。

こうやって見てゆくと、結局個人技には強いが、チームワークとして戦略的に最適化することには弱い、という日本人像が浮かび上がってくる。俗に言われている日本人観とは正反対だが、日常的な国際比較の中で感じる問題点とは妙に一致する。手を動かしていれば、何も考えなくていい。日本人が強いのはこういう分野である。ブルーカラー的なものにつよいだけであり、モノ作りのプランニング・プロデュースのレイヤーはからきし弱い。決してモノ作りに強いわけではないのだ。だからこそ自分を正当化するために、悪平等社会日本では、エクゼキューションのレイヤーだけで物事を評価するようなスキームを作ってしまったということに過ぎない。

しかし、例外的にはプランニング・プロデュースのレイヤーに強い人材や組織もいないわけではない。グローバルに通用する製造業の日本企業が歴然と存在していることが、それを示している。そしてそれは大企業だけでなく、中小企業にもちゃんとある。だが問題は、そういう企業があっても一部に過ぎず、そうでないところの方が多い点にある。そして、そういう問題企業の方が社会のスタンダードであり、グローバルに通用する企業の方が「特異点化」しているところにある。これは社会の評価軸自体が歪んでいることを意味する。悪平等指向のあまり、健全な競争や向上心を阻害し、悪平等が貫徹できるように、評価軸がゆがめられているのだ。

これは、モノ作りのプランニング・プロデュースのレイヤーを仕切れるリーダーの不在というカタチで現れている。現場が解って、プランニングができて、はじめてリーダーが勤められる。ポイントは、センスであり、技能ではない。モノ作りには、頭でっかちの知識エリート型の秀才ではダメだ。現実の多くの日本企業では、現場の悪平等指向を反映し、現場には技能が解る人しか立ち入れなくなっている。そうやってエリートは現場に立ち入ることなく、理解できない、しないままアドミニストレーションを行なう。現場の「技能が解る人」は現場監督であり、戦略的マネジメントができるわけではない。しかし、そういう人材がエクゼキューションのレイヤーを仕切ってしまう不幸が日本の製造業を蝕んできた。

このように、日本の企業では悪平等指向ゆえ、プランニング・プロデュースのレイヤーに強い人材「現場」は嫌ってきた。モノ作りが大事であることは言うまでもない。しかし、そこで語られるモノ作りは、巷で語られるようなエクゼキューションではなく、プランニング・プロデュースという意味でのモノ作りである。こつこつ手先で稼ぐブルーカラーとしてのモノ作りは、物を作る上での手段としては必要だが、それだけで競争力を生むものではない。競争力、付加価値の元は、モノに込められたアイディアや発想なのである。そして、ここで勝負することこそ、モノ作りの極意なのだ。そしてこれができていれば、生産の構造変革もなんら恐れるものではない。


(02/04/19)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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