マーケティングとmarketing(その1)







この業界に関わって20年ほどになるが、その間ずっと気にかかってきたことに、この業界での「マーケティング」というコトバの定義がある。もともとmarketingというのは、英語では企業・ビジネス用語としてはかなり一般的に使われる単語である。しかし、業界で言う「マーケティング」は和製英語であって、英語のmarketingとは似て非なる意味を持っている。いわゆる「外来語」としての和製カタカナ英語には、たとえば愚直、素朴といった意味を持つnaiveが、ナイーブとなると純粋、繊細という意味で使われるように、元来の英語の意味と異なった定義づけが行なわれているものも多い。漢字の熟語でも、元来の中国語の意味と異なる意味で使われているものも多いことを考えると、それを理解し上で使いわけているのなら、それはそれで問題ないだろう。

これが問題となるのは、意図的にか無知ゆえか、マーケティングとmarketingとが混同されて使われることも多々ある点である。辞書を引いてみればすぐ解ることだが、英語のmarketingとは、取引、販売、営業活動といった企業活動を包括する広い概念である。製造業で言えば、工場で出来上がった製品をどうするかという下流側のプロセスを全て含んでいる。一方marketing sectionといえば、もちろん日米の企業の組織構造が違うし、流通構造も大きく違うので、全くドンピシャとはいかないが、日本で言えばおよそ営業・販売部門に相当する。この体でいけば、狭い概念でのとらえかたでは、企業の下流側の営みの中でも、営業・販売活動という事になる。どちらにしろ、製品やサービスを実際の顧客と結びつけ、対価としての収入を得る行為が核となっている。

しかし、日本の広告業界でいうところの「マーケティング」からは、この「製品やサービスを実際の顧客と結びつけ、対価としての収入を得る」という最も重要な視点が、スッパリと抜け落ちてしまっている。その代わりといってはなんだが、「マーケティング」が取り扱うのは、あくまでもコミュニケーションの部分だけであった。あたかも「マーケティング・コミュニケーション戦略」を省略して、「マーケティング戦略」と称しているかのごとくである。確かにマーケティングコミュニケーションも広い意味でのマーケティングの一部だが、あくまでもごく一部、それも周辺部でしかない。その構造を考えると、「マーケティング」が解っていても、「marketing」が解ることにはならない。もちろんその逆は成り立つのだが。

もっと厳密に今の用語で言えば、日本独自の「マーケティング」とは、「マーケティング・コミュニケーション」の中でも、「メディア・プランニング」の領域しか扱いえない手法である。もちろん、その領域においては確かにそれなりの成果や手法を残してきたことは認める。だが、それは「モノを売ること」に直接貢献したり、知恵を出したりするものではない。ここが大事なのだ日本経済のグローバル化が進み、日本においても「marketing」という視点が問われる時代になった。そこでは「マーケティング」にオプティマイズした人間では、「marketing」を語る資格を持っていない。だからこそ、今に至ってこの「混同」が問題となっている。

たとえば、もっとも基本的な概念である「ターゲット」のとらえ方がある。日本独自の「マーケティング」、すなわち「メディア・プランニング」におけるターゲットとは、当然「コミュニケーション・ターゲット」である。これは、marketingで考える「販売ターゲット」とイコールではない。包含関係からいえば、「コミュニケーション・ターゲット」>「販売ターゲット」である。コミュニケーション上は、ターゲットの中に実際の販売ターゲットが含まれていさえすればいい。もともとマスメディアによるコミュニケーションは広く、浅くが基本となのでそのぐらいアバウトなものにならざるを得ない。あくまでもマスメディアの対象は、不特定多数としての匿名の大衆だからだ。

いわば、大量破壊の核兵器で攻撃するようなものである。「的」の中心に誰もいなくても、その周辺にいっぱい敵がいそうなあたりを狙えば、それなりの戦果を上げることができる。これはコミュニケーションだからこそ成り立つ戦法だ。実際にモノを売る段になると、これではすまない。実際の顧客をピンポイントで攻撃しなくては買ってはもらえない。きっちり特定の顔と名前を持った顧客を照準の真中にとらえ、そこにロックオンしなくては当らないのだ。欧米のアカウントプランニングの本を読むと、「平均的消費者とは、乳房を一つ、睾丸を一つ持っている」という自嘲的な表現によく出会う。まさにmarketingにおいては、理屈の上の平均値など役に立たず、実際の顧客のリアルな姿をつかまえてはじめて物が売れるのだ。

こう考えてゆくと、なぜ日本において「マーケティング」の定義が歪んでしまったのかよくわかる。それはひとえに、その概念が導入されたのが、あの類まれな高度成長期だったことと関係が深い。まず、高度成長期においてはその発展が余りに急速だったため、常に売り手市場で推移した。消費者は飢えており、モノの質が問われることなく、店頭にありさえすればどんなものでも飛ぶように売れた。そこでは、「消費者が、あたかも匿名の多数」のように見えてしまった。売るのに必要なことは、ただ「その商品が店頭にある」ことをコミュニケーションすることだけだった。ここに二重の意味で、marketingをマーケティングに矮小化するベクトルを見出すことができる。

これに加えて、日本においては「非関税障壁」をいわれつづけてきた、旧態依然とした伏魔殿的な流通機構が存在してきた。メーカーにとってこの流通機構は両刃の剣であり、外資のように新たに参入しようというものにとっては、得体の知れない魔物になるが、それをみかたにつけ牛耳ってしまえば、これほどおいしいものもない。上流に向かって、部品メーカーや下請工場を「ケイレツ化」したように、下流に向かっても、販社や卸、場合によっては小売店まで「ケイレツ化」を図ることになる。こうやって流通を握ってしまえば、高度成長期においては、あたかも消費者の手元までベルトコンベアが伸びたかのごとく、つくりさえすれば自動的に売れてゆく仕組みが作られることになった。

かくして、marketingはマーケティングとなった。しかしこれを増長した要因は、欧米のmarketing理論の中にもあった。それはアメリカにおいては、顧客を見据えてモノやサービスを提供する考えかたは、あえて理論化するまでもなく、アメリカ人の血肉としてベースになっており、それを前提としてmarketing理論が創られた点である。昔なつかしいapple][を購入すると、applesoftBASICのデモソフトとして、レモネード屋のゲームがついてきた。これはあちらの子供の遊びとしてポピュラーなものをシミュレートするものだが、けっこうこういうので子供の頃から小遣いを稼いだりする環境にある。そして、そこでお金が減るか増えるかは、市場環境と顧客ニーズをどれだけつかんでいるかにかかっている。

そういうベースがあるからこそ、marketingのためにあえて理論化しなくてはならない部分は、マーケティングコミュニケーションとか、在庫管理とか、周辺のメソトロジーが中心となったこともうなずける。marketing周辺で学問として体系化されたのは、それらの領域である。そして、日本に移入されたのも、そういう「理論化」されたものだけであった。しかし、生活レベルでの商売感覚というバックグラウンドがない日本では、それらのメソトロジーだけでは不充分なのもまた然り。しかし、高度成長期という特殊な市場環境、社会環境がそれを許してしまったのが不幸の始まりということになる。

似たような例はなぜか日本には多い。ジャズ理論にバークレーメソッドというのがある。もともとクラシックのテクニカルバックグラウンドがある管楽器等のミュージシャンが、促成でビッグバンドといったジャズをプレイし、商売になるように作られた理論体系である。しかしこれで通用するのは、映画音楽やテレビ・ラジオのジングルをはじめとし、生活の中でブルースフィーリング、ジャズフィーリングに触れ、それを共有できているアメリカ人だからこそである。そういうバックグラウンドのない日本人に、理論だけ持ってきても、単なるテクニカルトレーニングになってしまう。かくして、日本にはジャズフィーリングのない、頭でっかちなジャズミュージシャンが跋扈することとなってしまった。これも全く同じである。

ここ数年、CRMといった顧客管理や、DM・通販といったチャネルそのものに関わる領域まで、広告業界が関わることが増えている。しかし、これらの領域についてはブランド・エージェンシーは必ずしも強くない。それはこういった問題がマーケティング・コミュニケーションの話ではなく、流通やチャネルに関わる問題だからだ。これらのプロたるためには、流通をベースにした別のコンピタンスが必要であり、これは広告屋とは違うセンスである。不特定多数のターゲットというとらえ方ではダメで、キチンと顧客一人一人の顔が見えていなくてはいけない。しかし日本の業界には、それを解ってない人が余りに多い。これもまた、マーケティングとmarketingの混同の生んだ悲劇である。


(02/05/03)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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