マーケティングとmarketing(その2)






日本においては、マーケティングというコトバの意味するところは、つきつめていえば「マス・マーケティング・コミュニケーション」という、marketingの中では極めて部分的な領域に特化したものであった。これは前回検討したところである。では、日本においてはmarketing的なものの考えかたが全くなかったのかというと、これは決してそうではない。それどころか、これまでにも機会を代えて主張しているように、世界に冠たる町人文化の花開いた江戸時代以来、商人道の極意といわれてきたことが、まさにmarketingの本質なのである。元来、モノやサービスを作ったり提供したり、といった「商い」を行なう以上、商人道はまずわきまえなくてはいけないものであった。

商人道から外れた人間がビジネスをやろうと思っても、ちょうど明治になって「武家の商法」と揶揄されたように、マーケットがそれを受け入れないという基盤があった。そこでは買い手市場の健全な競争原理が働いていたからだ。しかし、これもまた高度成長期と共におかしくなってくる。欲望を見たす以上の速さで、商品やサービスが提供できるようになった結果、商人道を踏み外しても、それなりに金が入ってくるようになってしまったからだ。マーケティングの歪みとは、高度成長期とともに商人道をわきまえていない人も、それなりに商売ができる環境ができてしまったことの悪影響と考えることもできる。

そもそもmarketingとは、もう一つの意味でのコミュニケーションである。人と人がいて、そのインタラクションの中から商機が生まれ、その結果商品やサービスが提供され、対価が払われる。はじめにいるのは、送り手と受け手という人間同士である。決して商品やサービスが、独立して先に存在しているのではない。商人道のポイントは、このようにビジネスを「人間関係」をベースにとらえるところにある。それは理屈で数式をこねくり回すような、定量的で理性的なものではない。それとは対極にある、人と人の心を通わせるための、泥臭い、人間味あふれる、もっとも定性的で感情的な作業である。

ここでは、客の顔が見えているのが基本となる。顔が見えている相手に「どう売るか」というのが元来の意味でのmarketingだ。そういう意味では、顔が見えていない相手には、ニーズに合ったモノやサービスを的確に提供することができないともいえる。しかし、「マス・マーケティング・コミュニケーション」のためのメソトロジーに過ぎなかった、日本の「マーケティング」では、ターゲットはあくまでも「不特定多数」であった。そして「不特定多数」の名の元に、客の顔が見えていないし、見てもいない。これでは売れるわけがないし、売れる策を思いつくわけがない。これで済んできたこと自体が奇跡のようなものだ。

だからこそ、幸運な高度成長期が終り、安定成長期に入ると共に、ラッキーな奇跡も続かなくなって当然だ。そっちが本来の姿。そういう自体になっても、そんな無手勝流の戦略でモノを売ろう、サービスを提供しようというだけで、負け戦が決まってしまうようなもの。マーケティングは理屈なので秀才が勉強すればなんとかなった。しかし理屈だけの秀才は、人の心をつかむ術を知らないからだ。これでは、マーケティングじゃなくて「負けティング」だ。だからこういう秀才だけ集めた企業は「負け組」になる。負け組企業は、相手の気持ちを読み、つかまえることが決定的に弱い。

田舎に行くと、商店街とかないような田園風景の中に、ポコッとスナックが立っている景色によく出くわす。そこでちゃんとビジネスが成り立っているからこそ、そういう店をよく目にするわけである。こういう地方スナックは、どうやって生き残っているのか。ここに、本来のマーケティングすなわち「marketing」の本質がひそんでいる。俗にマーケティング理論と呼ばれているメソトロジーに出てくるように、常に競合相手をを意識し、安くしたりコストパフォーマンスを上げたりして、競合に勝てばいい、と言うような戦略をとっても生き残ることはできない。それでは、客はやってこない。そもそも顧客にとっては競合関係ではなく、その店ならではの満足感をもとめてやってくるからだ。

そう考えていけば、不特定多数を相手にする時に陥りがちな罠である、「濡れ手に泡」の欲を出して、拡大戦略をとること自体が間違っている。marketingとは、なにより自分の顧客をきっちり守ることである。ロイヤルカストマーをキープすれば、自分の市場では常に自分がリーダーとなることができる。これが商人道の極意であり、marketingの極意なのだ。市場の拡大は、自分の顧客のニーズに合わせた商品やサービスを提供し、「顧客満足」を高めることで、マーケット自体を拡大することによってはじめて達成される。そしてこれを具体化するのは理屈ではない。あくまでも、顧客の心をつかまえるセンスなのだ。これをキモに命じておく必要がある。


(02/05/10)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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