マーケティングとmarketing(その3)






さて、商品でもサービスでも、人が対価を支払ってそれを消費しようとするモチベーションは何だろうか。マーケティングの基本はここにあるはずだ。しかし今までの「マーケティング理論」は、この最も基本的な命題に明確に答えることを避けてきた。というより、見てみぬフリをして「周知の事実」のごとき顔をして素通りしてしまったというほうが適切だろう。人間を消費へと駆り立てる、買う、買わないの判断。それはつきつめるところ好き、嫌いの問題である。決して論理的な判断ではない。このような情緒的な行動の結果を、合理的かつ論理的に予測しようと思っても、そもそも不可能である。「マーケティングの理論化」には、こういう自己撞着があるからこそ、ここを逃げて通ってきたということができる。

それでも、まがりなりにも理論っぽいストーリーが作れたのは、例外的な場合を取り上げて、そこを一般化した理論を構築したからである。例外的な場合とは、「命題が単純かつ母数が極めて多い」ときである。このような場合、個々の構成要素がどうなっているかというコトをネグっても、集団全体としての傾向をとらえることができる。これはなにより量が多くなると、統計的な傾向値としてとらえられるから。たとえば熱力学などがその代表的な事例だ。基本的に、個々の分子の運動は、偶然性に左右されている。これを論証・予測することはできない。しかし一定の容積の気体というようにマクロ的レベルでは定量的にとらえることができる。それが熱力学とである。

これと同じ発想で、人間集団であっても極めて大きな母数の集団を前提に、○×で答えられるような単純な命題に対する答えの傾向値を考えるなら、ある種の統計処理に基づき、それを論理的に分析したり、予測したりすることができる。だがそれでわかるのは、あくまでも統計的な傾向値でしかない。その集団で「○が多い」と言うことはわかっても、集団の全てが○ということは極めて希である。それでも意味がある場合には、このようなマクロ的視点は大いに意味を持つ。選挙の当落予測や、内閣の人気調査などができるのも、これが前提となっている。だが、それは万能ではなく、全てを予測できるわけでもない。ここを見極めておかなくては意味がない。

たとえば、「日本人はホンネとタテマエが乖離している」などというときの「日本人」のとらえ方が典型的だろう。個人レベルでいえば、ホンネとタテマエどころか、きわめて裏表のない日本人もいるし、表向きは調子のいいことばかり言って、決して本心を見せない欧米人もいる。一人一人で見ればこのように千差万別である。決して「日本人だから」「欧米人だから」と言い切ることはできない。しかし、何万人という集団をとったときの傾向値として、日本人の集団の方が欧米人の集団より、ホンネとタテマエが乖離している人間の存在確率が高いことは確かだ。その意味で「日本人」なのである。こういう視点でのみ、定量的なとらえ方が可能になる。しかし、これは集団にしか適応できず、個人がどうなのかということに対する答えにはならない。

しかし、いざ問題が「物やサービスを売る」ことになると、こんな簡単な話ではすまない。顧客がその商品やサービスに対し支出するモチベーションはそもそも一様ではない。ビートルズファンは世の中に多いが、ビートルズのどこに魅力を感じているかという視点からみてゆけば、ビートルズファンも百人百様である。その一人一人違う魅力に基づいて、ビートルズのアルバムやビートルズグッズを購入するのである。真のマーケティングとは、この百人百様の「好み」を見極め、それにマッチしたセールストークでその魅力をアピールすることである。このようなコンピタンスは、マクロ的な傾向値とは対極にある。

元来そうなのだが、こういう複雑な嗜好性が問われない場合も希にある。それは人々が「飢えている」時である。これは精神的に飢えているのでも、文字通りひもじい状態にあるのでもかまわない。飢えているときには、中身の良し悪しを問うたり、好き嫌いを言うより前に、とにかくモノを確保することが先決である。そして日本の高度成長期に代表されるような「大衆消費時代」のテイクオフ期には、決まって大衆は「飢えている」のである。特に日本の高度成長期は、精神的にも肉体的にも飢えていた。これについては前回、前々回でも触れたが、マーケティングがmarketingになれなかった不幸はつきつめるとここにある。飢えている人相手の方法論では、豊かな時代に通用しないのも当然だ。

安定成長期における商品やサービスとは、つきつめて言えば改造車の雑誌に広告の載っている「族車用のマフラー」のようなものである。それにコダわりのある人、それが自分のアイデンティティーになっている人にとっては、食うモノを減らしても手に入れたいお宝である。しかし、それ以外の人にとっては全く関心の外である。そういうモノがあること自体視野に入っていないかもしれない。食い物の嗜好、ファッションの嗜好等、自分のオピニオンを持つ人間にとっては、全て消費活動とは自分の嗜好の発露である。非大衆の消費行動とはそういうモチベーションなのだ。そういう時代に至ってなお、飢えた時代の「必需品の使用価値」を基準にするコトの無意味さを、きっちりと実感して欲しい。

(02/05/17)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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