趣味と原理主義







ADSLをはじめとして、CATV利用の接続サービス、FTTHサービスなど、個人ユースでの「ブロードバンド」接続サービスの利用も一段と普及し、日本における個人のインターネット利用も定着期に入った。そういう中で、個人利用を支えているコンテンツ的基盤になっているのが、インターネットの個人Webや個人主催BBSといった、個人ベースのコンテンツである。こういうコンテンツは「パソコン通信」以来脈々と受け継がれてきたものであるが、ことブロードバンド時代になって、今までのような「発信者=受信者」という構造から、発信者と受信者の役割分担が明確化してきつつある。それが良いことなのかどうかはさておき、やはりこういう「受身」のユーザが増えることが、ユーザ層の増大に寄与していることは否定できない。

さて個人ベースのWebやBBSというと、なんといってもそのテーマは「趣味」の話題が中心になる。もともと会社や地域コミュニティーとは別に、趣味を同じくする仲間と語り合いたいという欲望は誰もが持っているものである。しかし、そういう趣味関係の店や場所で知り合ったりしない限り、なかなか友達の輪が広がらないのも趣味の友人の特性である。このバリヤーを空間・時間的に超えてしまえるインターネットが、そういう仲間を増やして行くために利用されるのも、これはある種必然的なものだろう。実際WebやBBSがウマく機能し、新たな趣味の仲間を見つけられたという事例も数多くある。そういう意味では、インターネットと趣味とは、蜜月関係にあるといえるだろう。

しかしインターネット上で「趣味」を語るとき、気になる現象がしばしば見られる。それは趣味の中にある種の権威を持ちこみ、「正しいもの」「正しくないもの」の区分けをしたがるヒトが多々見られる点である。まるで、趣味の世界に宗教における「原理主義」を持ちこむかのごとくみえる。元来、趣味とは好き嫌いの問題である。正しい、正しくないの問題ではない。自分が好きならそれでいい。その自分の楽しみ方をヒトからどうこう言われる筋合いではないし、ヒトの楽しみ方を論評するのもはっきりいって僭越である。少なくともリアルの世界での趣味は、こういうものである。みんなそれぞれ勝手にやっても、とやかく言われることはない。

いわゆる「オタク」というコトバの語源が、これを如実に表している。70年代から80年代にかけて、アニメマニアが互いに相手を示す二人称として「お宅は云々……」という言い方をし合ったところから、「オタク」と呼ばれるようになった。その由来は、相手の趣味を尊重して直接踏み込まないように、互いに距離をとるべく、こういう呼び方をしたコトにある。自分と相手とが違う趣味であったとしても、それが直接の論点になり、不毛な議論になることを避ける。同時に、必ずしも個人的にはそれに価値を認めていなくても、相手の知識やコレクションをそれなりに評価し、自分も同様に距離を置いてそれなりの評価を受けられるような関係を構築しようとしたのである。

だがインターネット上では、声高に自分の趣味のやり方の正当さや、自分のその領域でのコレクションや知識の価値を主張する声が必要以上に目立つ。それも、既存の権威を引用してそのブランドバリューを傘に着たり、小難しい理屈を鎧のように積み上げて威厳を示したりすることで、自らの正当性を主張するコトが多い。これは一体どういうことなのだろうか。考えるに、これは自分の意見を主張するには、キチンと自分を持っていなくてはいけないことに関係がありそうである。インターネットで発信するには、それなりにしっかりとした自己主張をする必要がある。しかし、その前提となるだけの「自分」を確立しているヒトは少ない。従って「虎の威を借りる」ことになる、という次第である。

元来、ヒトの好みは百人百様である。しかし、その好みをキチンと人前で主張するには、「他人からどう思われようが、自分の選んだ道を行く」ことができる「自立・自己責任」な生きかたができることが前提になる。「甘え・無責任」型の人間では、他人からどう思われるかのほうが気になって、本当に自分が好きなことを好きといえない。良く例に引くが、「甘え・無責任」人間の多い男性の場合、記名アンケートあるいは集団インタビューで好みの女性を尋ねた場合と、無記名アンケートまたは個別インタビューで好みの女性を尋ねた場合と、同じ母集団であっても、全く違った結果が出てくる。個々の男性が持つ女性の好みは、本当に千差万別である。

いわゆる「美人」とか「良いスタイル」と言われる女性を、すべての男性が好むわけではない。デブ好きもいれば、ガリガリ好きもいる。熟女好きがいれば、ロリ好きもいる。ハデな金髪好みがいれば、いなたくて垢抜けしない娘が好きなのもいる。しかし、衆目の集まる前で、その「本当の好み」をカミングアウトするほど、自分の生きかたに自信をもっている自立した男性はそんなにいない。というわけで、ヒトに知られ得るような環境下においては、どうしても偽った姿をとってしまうということだ。インターネット上での趣味の話題において、「正しい・正しくない」の議論が繰り広げられがちなのも、この点を踏まえるとよく判る。

インターネットでの議論は、ある種「半記名」のようなところがある。基本的に匿名性を持ったまま自己主張ができるものの、リアクションはストレートに返ってくる。書き手にとっては、それが「自分という特定個人」のオピニオンであることは知られないまま終始するものの、そのオピニオンに対する反応は直接自分で受け止めざるを得ない。ある種匿名の気安さで、自分の個人的な好みに忠実なストーリーを公表できる。しかし、それが周囲からぼこぼこに叩かれた日には、書いた本人はあたかも自分という個人が直接叩かれたように傷つかざるを得ない。だから「甘え・無責任」型の人間は、結果として批判され、自分が傷つくのが恐くて、必要以上に権威を振りかざして自己防衛に励むことになる。

そう考えると、こういう「原理主義者」が、必要以上に議論がリアルの場に持ちこまれることを恐れる理由もよくわかる。インターネット上での議論は、なにかと制約が多い。そこで、「一度お会いしてお話したいですね」となることも多い。しかしこういう人達は、実際に会う話になると、極端に引いてしまう。あるいは屁理屈をこねまわした挙句、ステ台詞を吐いて逃げてしまう。これもまた、自分のスタンディングポイントに自信がないゆえである。たしかに日本には「甘え・無責任」型の人間が多い。こういう悪い意味での「大衆」も参加できるのが今のインターネットなのである。そう考えれば、いちいち目くじら立てるまでもなく、シカトしておくのが一番いいのだろう。こっちが無視していれば、彼らは自己満足に浸っていられる。相手が「大衆」である以上、それがどちらにとっても幸せというものだろう。

(02/06/07)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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