階級マーケティング






日本では、どうにも「階級」というコトバのイメージが悪い。日本社会に根強くはびこる「悪平等主義」の象徴というか、とにかく他人との間での「差異」を認識することを必要以上に忌み嫌う傾向が強く、違いを違いとしてとらえる「階級」意識は、目の仇にされている。少なくとも「近代国家、国民国家における階級」という概念に限っていうのなら、それは単に人々の間での生活意識や行動様式の違いにすぎない。決して上下関係を意味するものではない。イギリスの労働者階級に属する人々など、労働者階級であることに誇りを持っており、貴族をバカにしてかかっている。このようにもともと多様な価値観を受け入れる余地があるのなら、目クジラを立てるものではない。

日本においては、逆にそれすらの違いも受け入れられない人達が、古代や中世の領主制や封建制における「階級」を引用し、こじつけようとしているだけである。それだけ「悪平等」を求める、「甘え・無責任」の受動型の人達が多いということなのだろう。もし近代・国民国家における階級が、生活意識や行動様式の違いをあらわすものであるならば、現代日本においても「階級」は歴然と存在する。その線で行けば、現代日本の二大階級とは、まさに「自立・自己責任」で能動的に行動する人達と、「甘え・無責任」で受動的に行動する人達、という大きな二つのクラスターということになる。久野収氏が「現代日本の思想」で提唱した、天皇制をめぐる「密教徒と顕教徒」の末裔達が、文字通り日本を二分する二大階級なのだ。

この構造は大いに示唆するところがある。19世紀、ドイツの社会学・哲学者ゲオルグ・ジンメルは、世の中のトレンドや流行に関する構造分析として「トリクルダウンセオリー」を提案した。基本的には流行やトレンドには少数のリーダークラスターと多数のフォロワークラスターがあり、リーダーが新たなものを受け入れ、自分達のスタイルとして定着させると、それをフォロワーが取り入れマス・ムーブメントとなること。フォロワーが取り入れマス化すると、そのスタイルとしての先進性が陳腐化するため、リーダーはそれを捨てさらに新たなものを捜し受け入れること。このリーダーによる「発見・定着」と、フォロワーによる「陳腐化」の繰り返しが、世の中の流行トレンドを生み出すことが述べられている。この考えかたは、基本的には現在でも充分通用するものである。

数年前業務で、フトコロだけ豊かな「成り金」と、心まで豊かな真の上流たる「資産家」とどこが違うのかという分析を行なったことがある。その結果でてきたのは、「成り金」は、常に自分が他人からどう見られるのか、他人と比べてどっちが上かという、他人の視線や世の中の平均値を基準にして行動しているのに対し、「資産家」は常に自分の中。にきっちりとした価値基準を持ち、自分の心の満足を求めて行動していることであったキャッシュフローや資産額といった定量指標で計りえないちがいがそこにはある。まさに、他己アイデンティティーの「成り金」に対し、自己アイデンティティーの「資産家」。これをメンタリティーに置き換えて考えれば、「成り金」は「甘え・無責任」型、「資産家」は「自立・自己責任型」ということになる。

やはり二大階級としての「密教徒」vs.「顕教徒」という構造は歴然と存在しているのだ。とはいうものの、こと近代日本においてはそれだけで単純に図りきれない要素があった。それは、日本の「密教徒」は、国内では「自立・自己責任」で行動するリーダー層であったものの、国際的に見れば必ずしもそうではなかった点だ。日本自体が「欧米に追いつき追い越す」ことだけを目標としてきた。ということは、世界という構図の中では日本はフォロワーだし、グローバルなリーダー層からすれば、日本のリーダー層もまたフォロワーとして見えるという二重構造があった。密教徒も完全には自立せず、追いかける目標があったのだ。

これは政治・外交といった面で、日本の行動を規定したが、同時にマーケティングという面でも「欧米ブランド信仰」を生んだ。「密教徒」も、海外モノには弱い。欧米の商品や欧米基準のサービス、こういったものに出会うと、国内では「自立」しているはずの人達も、一気に受け身型になってしまう。その一方で、リーダー層としての消費に対する波及効果は根強く持っている。ここに、日本のフォロワー層は、ダブルの意味で「欧米信仰」を受け入れることになった。そして、それは「追いつき追いつく」目標を具現化したものとして、あこがれと「いつかは見返す」目標という、アンビバレントな二重性をそなえたまま神格化を高めてしまった。

これは実は生活行動という面では、「密教徒」と「顕教徒」の間の差異を見えにくくした。この両者の間では意識は確かに違う。だが、表に現れる消費などの様式はほとんど違わない。お金さえあれば、海外旅行に行って海外ブランド商品を買いあさり、一流リゾートに泊まることはできるからだ。これが、「総中流意識」の本質である。しかし、日本の経済も高度成長を遂げ、ついには目標としていた欧米に「追いつき、追い越し」てしまった。それとともに、ドルショック、オイルショック以降の、世界的な「先進国の安定成長化」の波に襲われた。ここに至って、日本でもその人が本当に「自立・自己責任」で行動できるのかが問われることになった。

ポジティブにとらえれば、これは日本の社会がモラトリアムを脱し、キチンと自立を遂げる機会と見ることができる。ここで、「密教徒」が真に自立し、リーダシップを取りうる階級としての意識に目覚めれば、日本の社会はいい方へ変わるだろう。そうなればマーケティングにおいても「トリクルダウンセオリー」の通り、リーダークラスターとしての「密教徒」の心をキチンとつかまえることができれば、その延長でマスも獲得できることになる。最初から、フォロワーしかないことを前提にした「マスマーケティング」しか知らないものにとっては、コペルニクス的転換かもしれないが、このところ主張しているように、元来のモノを売るという意味でのmarketingを考えれば、こっちが正当なのだ。

このためには何が必要なのだろうか。それは、その商品やサービス、さらにはその提供者自身も、「自立・自己責任」で能動的なスタンスを持っていることである。具体的には、1. 商品やサービスにオリジナリティーがあること、2. 独自の価値観に基づいており類似のモノとの代替性がないこと、3. 定量的なスペックで図りきれない「美学」や「ロマン」を提供していること、が前提となる。こう考えてゆけば、これはまさにこの数年来求められている「付加価値性」の源泉そのものであることがわかる。しかし、それは何ら驚くことではない。「密教徒」であるためには、その人自身が、匿名で代替可能な「大衆」とは違う「付加価値」を持っているコトが求められているからである。


(02/06/21)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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