企業と組織(教育関係者のために)






先ごろ都内で教育関係者の勉強会で行った講演の要旨である。

企業組織の現状について語ってくれという話だったが、ぼくは広告屋で、実際の広告作業の現場体験と、経営計画部門の経験しかなく、人事部門の経験はないので、あまり体系的に一般論を語れない。さらに広告ビジネス自体が大した組織を必要とする産業ではないし、組織的に立派なものを持っているわけではない。そこで体験をベースに語れる範囲ということで、創造的な組織とはどういう特徴があるか、最近のグローバルな経営論における組織のポイントは何か、の二点から話をしたい。

まずは、広告会社での体験からはじめよう。広告ビジネスの人事・組織的視点からの特徴としては、広告というものが組織ではなく個人ベースで行われるものであるがゆえ、常に個人の能力差がはっきり現れる点があげられる。ちょっと考えてみても、世の中の話題を呼ぶようなヒットCMは、誰でも作れるモノではないことぐらいすぐわかるだろう。とにかく広告の仕事はアイディアが勝負の世界である。広告作品だけでなく、懸賞や、プレミアムキャンペーンにしても、面白いか、みんな欲しがるかというアイディアの勝負だ。さらに一度使ったネタは二度とはウケないので、アイディアは思いつけば何でもいいというワケではない。常に切磋琢磨の競争にさらされている。だから評価は厳しいし、すぐに評価されてしまう。したがって形の上では同じ給料でも、能力差ははっきり認識することになる。はっきり言って、日本型の雇用制度は、広告ビジネスにおいては、仕事か金かの悪平等になってしまう。

したがって広告会社の組織も、そういう意味で特徴がある。いわば、アイディア・知恵を生み出すためにベストな組織構造に特化している。それはリアルな組織ではなく、ヴァーチャルな組織が仕事の中心になっている点である。仕事はラインに基づく組織図上の組織ではなく、仕事単位のチームが中心となっている。アイディアを生むには、一人より二人、二人より三人、という複眼的思考が相乗効果を生むため、それを実現しやすい、風通しの良い組織としての「チーム」が中心となっている。そこには社内、グループ内だけでなく、外部の人材も含めてメンバーが集められる。そして、その中ではスタティックではなく、融通無碍な役割分担が行われている。いわば「ブレーンストーミング」の発想を地で行く組織論である。ある面では、「コンカレント・エンジニアリング」にも似た構造がそこにはある。またこの風通しのよさゆえ、良い人材は良いチームに集まるという付帯効果もある。もっとも、悪いチームで人材は腐という弊害もあるのだが。

さて、以上が広告の仕事における体験だが、経営的視点の話に移るつなぎとして、先日偶然感じた、20年以上ぶりに行ってみた高校のクラブのOB会の経験を話してみたい。実はこのOB会、高校が進学校だった関係で東大法卒がやたらと多い。官僚・金融関係、重厚長大産業の名刺がぞろぞろ溜まってしまった。でこういう人達が話をはじめると、名簿を作れ、Webを開けと、同窓会の運営に文句をつけたり、こうしたらどうだと言ったりはするが、誰も自分でやろうとはしないのだ。口だけはリッパだが、何もやらない。彼らは単に組織に甘えて無責任体質なだけなのだ。こういう人達はエリートでもリーダーでもない。リーダーは、自立・自己責任で率先して行動しなくてはならない。こういう人達は、時代に取り残されて当然だし、こういう人達がエリート面していたのだから、日本はダメになって当然だ。いまや、勉強ができる、偏差値が高い、ではなく人間の器が問われるコトを痛感した。知識では器は作れない。まさに、秀才の時代の終わりである。

実はマネジメント・リーダーに求められる要件として、人間の器が問われているのは、何も日本に限らない。グローバル視点でのマネジメントリーダーの人材マネジメント最前線も、ここがクリティカルポイントとなっている。そういう意味では、産業社会から、ポスト産業社会、情報社会への移行とともに、ホットイシューになっている問題とも言える。しかし、日本においては特に産業社会、大衆社会といった20世紀的な社会のあり方へのオプティマイズが進み過ぎたため、この問題もまた特別に切実になっているということだ。

この問題を考えるには、「現場作業の監督者」とマネジメント・リーダーは、コンピタンスが異なるということを理解しなくてはならない。しかし、この違いを理解できる人が少ないのが、日本のウィークポイントである。だから日本の組織は、企業も官庁も「戦術あって戦略なし」ということになる。これは旧軍隊のころから全く変わっていない悪癖である。これが改められずにここまできてしまったのは、現場のエクゼキューションしかできない人でも、右肩上がりの高度成長期は経営者としてやってこれたからだ。しかし、マネジメント・リーダーたりうる素養は、超一流のスポーツ選手と同じ、一種の「才能」である。誰でも経験を積めばある程度はできる現場の統括者とは、求められる能力が質的に異なるのだ。日本が経済的には成功しても、政治的に世界で活躍できない理由もここにある。

日本の企業には、マネージャーでありながら、部門経営より現場監督であろうとする、いわば「プレイング・マネージャー」が多い。しかし、今企業に求められている経営は、そういう兼業で通用するものではない。「仕事を任せられる」ことがマネジメントの基本といわれる。いつまでも現場作業に未練を残して、後輩に現場を任せられないというだけで、マネジメントとしては失格なのだ。そういう「現場感覚」だけしか持たない人が、年功だけ経営を任せられるところに日本企業の問題がある。そういう意味では、企業のガバナンスも、突き詰めると経営トップに立った人間の素養の問題である。金融機関への信頼を壊滅させた金融不祥事から金融危機ヘの一連の動き、三菱自動車の欠陥車隠し事件、雪印の食中毒事件・牛肉詐欺事件。ここ数年マスコミをにぎわせる「企業の犯罪」も、結局は器のない人間をトップにいただくからだ。

いまやアメリカでも、MBAというだけでは高給はもらえなくなった。資格だけでもらえるのは、10万ドルがせいぜいといわれている。これなら日本企業の管理職とさして変わらない。そこからの上積みは、経営者としていかに業績を上げたか、いかに業務改革をしたかという実績がカギになる。資格ではなく、タタキ上げでも、辣腕な実績のある経営者は優遇される。そう考えると、ビジネス誌を賑わすCEOでも、GEのジャック・ウェルチは技術者出身だし、マイクロソフトのビル・ゲイツは大学中退だ。経営は知識より才能。その面でもアメリカは一歩先に行っている。だからこそ、マネジメント・リーダーのマネジメントはもっと難しい。マネジメント・リーダーたる人間を集めるにはどうしたら良いか。経営コンサルティングファーム、マッキンゼー・アンド・カンパニーは、「War for Tarent」という本の中で、次のように分析している。

第一に「人材が業績のカギである」こと全社的にコンセンサスとして認識すること。マッキンゼーのアメリカでの調査では、能力の高いマネジメント・リーダーに率いられた組織は、平均的リーダーに率いられた組織に比べて50%以上業績が高いという結果が出ている。第二に、優秀な人材が集まってくるような組織の魅力を持つこと。これは先ほど述べた、広告ビジネスの組織論とも共通するのだが、良い人材が多いと、組織の持つ文化や風土も良くなり、さらに良い人材が集まってくるということである。第三に、多様な人材獲得法を持つこと。これには、その企業が必要な人材像を明確にすると共に、自前主義を脱し広く可能性のある人材にアクセスすることがカギとなる。第四に、人材の「器の違い」に敏感になること。これは特に日本企業においてゆゆしき問題がある。現在の組織リーダーである1940年代生まれ(50歳台)の人は、戦後民主教育の悪平等主義に染まっており、「器の違い」にきわめて鈍感だからだ。最後に、人材に対し、能力別の対応をとること。優秀な人材を識別し、チャンスのある仕事をできるだけ多く与えることにより、教育すると共に厳しい競争の中でフルイにかけることである。

企業という環境では、業績として明確かつすばやく結果が出る。それだけに、変化は急速である。いまやグローバルな企業環境では、「リーダーシップを取るべき層」に対して、本当の意味での「能力主義」が浸透してきつつある。上下、良し悪しという意味ではなく、能力の違いを知り、その差異を生かす視点が必要になる。それがこれからの社会のスタンダードとなるだろう。したがって、教育の現場でも人間観を変える必要がある。そしてそれは、自分たち自身の管理や組織のあり方を、民間のルールに合わせることから始まる。



(02/06/21)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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