企業の公共性





日本では長らく、「企業=悪」「公共=善」というステレオタイプな見方が、タテマエの真実として通用してきた。産業革命直後で、近代産業社会のスキームも出来上がっていなかった、19世紀のマルクスの時代ならいざ知らず、産業社会も爛熟し、その頂点をはるか過ぎ、21世紀のポスト産業社会に入ろうとする今になっても、それを信じていられるというのは、古き良き時代へのノスタルジーはさておき、とても通用するものではない。公正ということでいえば、こと日本においては「公共性」を問われる立場や組織ほど、既得権益や利権、許認可構造といった、不公正な原理に貫かれているのはいまや常識だ。少なくとも、表立ってこういう「不公正な守旧派」を支持しにくい状況にはなっている。

その一方で、公益性のある組織を常に「正義」「公正」と見る一方、私企業を本質的に悪とし、目の仇にしている人達は、市民運動家や社会主義政党の運動家などに未だに見られる。しかし、ここで考えなくてはいけないのは、彼らは「55年体制」の「革新政党」に典型的に見られたように、守旧派の共犯者である。一見対立するような構造を持っているものの、実は同じ穴のムジナ。一つの軸の両端にあって、相互に支え合っているのに過ぎない。彼ら「社会運動家」のやっていることは、公共・平等の名の元に、官・公共の権威にすがり、そこに甘えておいしい利権を引き出しているだけに過ぎない。彼らにとっては実力主義・競争主義は、その既得権を犯す忌むべきイデオロギーだからだ。

こういうヒトにとっては、企業とは、なにより責任を押し付ける相手である。尻を拭かせる相手、スネをかじる相手といおうか。自分に非があり、責任がある場合でも、組織である相手に責任を押し付けることにより、誰に責任があるのか曖昧にできる。結局、「大企業」を悪者にすることにより、誰も責任を取らない仕組みができる。「弱者」のフリをして、「強者」に責任を押し付けてしまう。これはとても汚い手だ。しかし、日本の国民性はこれを許してしまう。それは、やはり日本人の「甘え・無責任」体質に問題がある。大企業の中にも、「寄らば大樹の陰」で、組織を食い物にして無責任の限りを尽くす人が多い。何のことはない。同じ「顕教徒」達が、大企業の周辺で甘い汁を吸い合っているだけのことだ。

そういうヒトは、エンロン、ワールドコム、とディスクロージャーの本場アメリカで起こった不正会計という「企業不祥事」を、鬼の首でも取ったかのように喜んで取り上げるかもしれない。しかし、悪いヤツはどこにでもいる。そういう悪いヤツがいつまでもおいしい利権を享受しつづけるのではなく、結局は周りにバレてあぶり出されてしまう仕組みのことこそ、「公正」というべきではないだろうか。現実に何が起こるかは、制度の問題ではなく、その運用の問題だ。そして運用は人間に任されている。すべての人間が聖人君子でないからこそ、悪人が紛れ込んだときに自浄作用が働くことが大切なのだ。それがガバナンスというものではないだろうか。

そういう意味では、現代の企業はディスクロージャーし、常に人々の目から監視されているからこそ、誰よりも「公正」でなくてはいけないし、結果的に「公正」なモノのみが生き残れる。先ごろの2002年ワールドカップでも「誤審」の問題が話題になったが、単に審判だけでなく、多くの観衆が見ている中だらかこそ、誰よりもフェアプレイになる。審判が見ていなくても、反則を観衆が見ていればブーイングになるからだ。審判の目はうまくやればダマせるかもしれない。しかし、多くの観衆の目はそうはいかない。そして、すべて最初から多くの人の目にさらし、誰もがチェックできるのがディスクロージャーである。そういう仕組みを率先して取り入れる組織であれば、誰よりも自分自身が一番「公正」でなくてはいけないのは明白だ。

競争があれば、競争劣位者は生き残れない。相対的に瑕疵があるだけでも弱みになってしまうのだから、確信犯的に「悪いこと」をするものが生き残れるわけはない。競争とは、「悪い」もの「不公正」なものを淘汰する仕組みである。逆に規制があるからこそ、「悪い」もの「不公正」なものでも生き残る余地ができてしまう。ここに着目すれば、競争原理・市場原理に基づき、フェアに競争し、勝ち残ることを運命付けられている現代の企業ほど、「公正」にならざるを得ないものはないことがわかるだろう。もちろん、これは個人にもいえる。常に競争に身をさらし、自分自身をディスクローズし、切磋琢磨しているヒトなら、当然評価され信用される。一方、既得権に安住し、秘め事に守られ悪事の限りを尽くしているヒトは、結局は「畳の上では死ねない」ことになる。

性善説とは、無条件に相手を信用することではない。例外である「性悪者」を選り分け、彼らには特に厳しく接することで、自分に厳しく律している人を応援し、チャンスを与えることである。「天は自ら助くるものを助く」ではないが、競争原理とは、そういう「不公正」を許さず、「公正」な勝負が常に行なわれる状態をいう。そして、その競争原理がグローバルレベルで貫徹している状態が、今の企業環境なのである。もちろん企業のすべてがその競争で勝ち残れるわけではない。しかし、そこで勝ち残れる企業の条件を問えば、それはなによりフェアで公正な行動原理を持つことである。グローバルに評価される企業とは「公正」な企業である。このテーゼに疑問を持つヒトは、とりもなおさず「公正な行動原理」自体に非を唱えることになるのだ。br>

(02/07/05)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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