移民問題に寄せて





昨今ヨーロッパでは、経済・政治的に一体化が進んだ分、自らのアイデンティティーのよりどころとを求めて、民族主義の台頭が目に付く。近代産業社会的な意味での「国民国家」のスキームが、20世紀とともに終焉した以上、国家的なものはより大きなスキームに吸収されてゆく。その一方で、自分の一義的に所属する集団として、より根源的な「民族」によりどころを求めようとするのは自然な成り行きである。このような民族主義は、しばしば移民問題として議論を呼ぶ。しかし、我々日本人として理解しなくてはいけないのは、日本のような「悪平等の国の移民問題」と、ヨーロッパのような「階級のある国の移民問題」とでは、問題の性質が全く異なっている点である。

ある面でいえば、これはナショナリズムを支える基盤の構造的な違いということもできる。「ナショナリズム」というコトバだけは共通でも、その意味するところは、彼の地とこの地とで全く違う。それは、そもそも「ナショナリズム」というものが、西欧で近代国民国家ができるとともに成立した概念だからである。そもそもの政治組織のあり方の違い、主権の持ち方の違いを無視して、「島」という地理的な区切りだけを以て西欧的な「国民国家」を規定してしまった日本では、西欧的な意味で「ナショナリズム」が育つ基盤はなかったということができる。

そもそも西欧的な民族や国家に対応するのは、日本においては原初的には「クニ」概念だったはずである。つまり江戸時代の藩である。実際「薩英戦争」と言われるようにイギリスと薩摩藩が戦争をしたわけだし、パリ万博には雄藩は独自の主権で参加しているなど、江戸時代末期においては、必ずしも島のカタチを以て「国」となっていたわけではないことが見て取れる。「クニ」のレベルで自治としてのアイデンティティーを確立した上で、その連合としてより大きな主権国家を形作っていれば、もう少し問題は違っていたはずである。

さらに、西欧においては「階級」というものが歴然として存在した。あるいは、階級が存在したからこそ、何々公国といった日本の藩的な枠を越えて、クニの間での階級の横の連携が生まれ、それが近代国家の成立につながったと見ることもできる。当然、各々の階級にとってより大きな「近代国家」のスキームはメリットがあるものだ。だからこそ、近代国家が成立した後も、何らかの形で階級構造は温存されたワケである。場合によっては、どの階級にとっても国民国家化のメリットが教授できるものである以上、その構造はかえって強化されたといえるかもしれない。

しかし、日本は「旅の恥はかき捨て」「寄らば大樹の陰」の悪平等で無責任な町人文化が中心の国だった。これが、国家の規模だけ大きくなればどうなるか。元首や国王は国に一人、ということが象徴するように、ノブレス・オブリジェに耐えられる支配層は、国家の規模が大きくなったほどには増えない。当然、相対的に甘え・無責任の悪平等主義が蔓延することになる。従って西欧とは逆に、国の規模が大きくなればなるほど、甘え・無責任な庶民が増え、自立・自己責任な層は相対的に低下する。それとともに、階級の持つ意味は形骸化することになる。

さて、移民はより低い賃金、より単純な労働を担うものとして流入するのが普通である。人口不足を補うという役割もないわけではないが、どちらかというとよりローコストな労働力でハイコストな労働力を置き換え、競争力を取り戻そうという視点から熱望されることが多い。従って、階級社会においては、ある特定の階級と移民とが対立することになる。移民は、特定の階級の仕事を奪うことになる。ということは、その前提として、特定の階級のやる仕事の付加価値とマンコストがつりあわなくなっており、そこに移民の労働市場が形成しうるニッチがあるということができる。

つまり、階級社会における移民問題は、移民と移民で置き換えられうる層との、ある種の「階級間闘争」としてとらえることができる。そのプロセスの中でナショナリズムが起こるとはどういうことか。これはとりもなおさず、その特定の階級にとって、仕事を奪われることがクリティカルな問題になっているということ。コスト割れしていた自国人の階級が、自分の経済的権益よりも、外国人で置き換えられないことを望むということに他ならない。従ってナショナリズムがおこれば、外国人労働力の投入により置き換えられ、自分達が淘汰されてしまうよりは、自ら率先してよりコストパフォーマンスのよい労働力に生まれ変わろうとすることになる。

同一なネイティブの国民だろうと、移民だろうと、適正なマンコストになってくれればそれで構わないし、たとえば教育コストとか、生活習慣と生活環境をマッチングさせるコストとかを考えれば、前からいる人達のコストが下がってくれる方が効率はいい筈だ。だから、結果的には三方一両得である。このように移民が入ってくるぐらいならば、自分達のマンコストを下げても「純血」を守るということは、市場原理が働くということに他ならない。これはこれで健全な結論である。移民と競合する階級も、ある種自己責任で行動できる人達だからできることだ。

さて日本のような悪平等の国ではどうだろうか。ここには健全なナショナリズムは生まれにくい。日本の反移民主義者は、幻想の平等感をこわすものとして移民を排斥するからだ。そもそもが経済原理ではなく、その逆の既得権の問題なのである。ここでは逆に、移民の排斥が市場原理を働かせないものになっている。このようなナショナリズムは、まさに甘え・無責任のためのものでしかない。日本では、既得権にすがり、甘え・無責任社会を死守しようとするヒトほど「ナショナリスト」を称する理由がここにある。

このように、移民の労働により代替される層が、特定の階級として規定されている社会か、それが階級であることが隠蔽されている社会かという違いが、移民問題を似て非なる問題にしている。もし、その民族の活力を増大させることを以て「良いナショナリズム」と規定するなら、階級のある社会における移民問題は、良いナショナリズムを喚起し、悪平等の国における移民問題は、悪いナショナリズムを喚起するということができる。それは、階級のある国における移民問題は、ナショナリズムが、民族全体としては既得権を守る方向ではなく、市場原理にのっとり、競争力をまして行く方向に働くからだ。

このように、日本と西欧では、現象面はさておき、動機や主義という面では、「ナショナリズム」「反移民」といっても、その中身は180度異なるものであるということがわかる。ワールドカップに触れれば、少しは西欧的な「ナショナリズム」のあり方に関する理解も深まるかと思ったが、そうは問屋が卸さないようだ。しかし、日本が今の行き詰まり状態を脱し、活性化するためには、本来の意味でのナショナリズム、自立・自己責任に基づくナショナリズムの意味をキチンと理解しなくてはならない。わからないヒトはそれでいいが、わかるヒトは「違い」を心にとめるとともに、その志に基づいて行動してくれたらと思うのはぼくだけではないだろう。

(02/07/26)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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