教育の役割





7月27日の朝日新聞の教育特集「ニッポンの学力 -転機の教育」のテーマは、「『ゆとり』で『二極化』懸念」というものであった。今まで何度も述べているように、「ゆとり」教育というのも、文部科学省の役人の無責任な言い訳でしかないし、「二極化」も今に始まったことではなく、悪平等教育の化けの皮がはがれてきただけのことである。従って、個人的には「イマサラ」という感も強い。しかし、悪平等の大好きな「良識派」のオピニオンを代表する新聞も、否定的な文脈ながら、階層化を事実として認めざるを得ないところまで現実が進んだ現れとしてとるならば、これも意味のないものではない。

そもそも教育の本来の役割は、均質な「金太郎飴」を作ることではない。教育とは、一人一人の持っている個性やパーソナリティーを見つけ、それを伸ばすトレーニングとチャンスを与えることである。いわば百人百様の能力を活かし、最適な配分を行なうきっかけとなること。だからこそ、教育の持つ役割が社会へのポータルとなっているのだ。適性に応じたフィルタリングを行なうとともに、相対的に優れた能力を伸ばすチャンスを与えてこそ、長い時間とコストをかけて子供たちに教育を行なう価値がある。元来教育とはそういうモノなのだ。

しかし、教育界は悪平等の巣窟化した。教育が本来持っている人間形成への役割をねじ曲げ、画一化の道具とする。元来違う個性を、無理に同じものとして扱い、元来ある差を存在しないかのごとく扱う。これについては、日教組も文部省も、まさに同じ穴のムジナだ。互いに寄りかかり、もたれあう。これはまさに、無責任な人々による、無責任な人材の再生産ではないか。55年体制の自民党と社会党が、結局は結託して、「公共事業による国富の再配分」という、極めて社会主義的で、悪平等的な政策を実現したのと同じ。それの教育版である。この無責任な55年体制が、道を誤らせた。

しかし、長年続いてきたその悪平等バイアスを越えて、「向上心を持つ層」と「今のままでいい層」とが乖離してきたというのなら、それはまさに「神の見えざる手」の勝利だろう。極めて喜ぶべきことである。どんなにねじ曲げようとする作為があっても、最後は正義が勝つということではないか。一人一人が、各々の望む道を選ぶことで、結果として世の中のトレンドが良い方へと向かう。これは、人間社会は人間一人一人の個性の違いを認めない「悪平等」を許さないということだ。なんとも良いことではないか。

ということは、おのずとこれから世の中が向かうべき方向も見えてくる。「甘え・無責任」層は、そのまま甘えたままでいい。彼らに無理に自己責任を押し付ける方が間違っている。大事なのは、それとは別の文脈で、「自立・自己責任」層が、自分が努力した分だけ報われるスキームを作ることにある。問題なのは、自立・自己責任で行動することを許さない圧力が存在することだからだ。この二つの階層が、それぞれの指向性に忠実な形で並存できるなら、それにこしたことはない。多様な価値観を持つ意味は、ここにもある。みんなが好きな道を選べればそれでいいのだ。

日本の競争力が低下している、といわれて久しい。それは、高度成長時代のメッキがはがれてしまったのに、新しいパラダイムに移行できていなからだ。組織の、社会の、そして国の競争力は、そこにいる人間の競争力からのみ生まれる。その組織が競争力を持つためには、そこにおいて競争力を持つ人間が重視されることが前提となる。しかし高度成長期には、競争力を持たない人間も「員数合わせ」という文脈の中で、居場所があった。だから、日本の企業や組織、そして社会自体も、人間の競争力は問われず、どちらかというと競争力を持たないヒトが居心地良いように作られていた。

しかし、安定成長時代は国や企業も実力勝負の時代。そうなってはもう、競争力を持たない人間を飼い殺しておく余裕はない。しかし、日本ではまだ競争力を持たない人間も、充分企業の中で居場所が認められている。彼らは、多数派であり、競争力を持たないにせよ、一人前の発言権を持たされている。そうなると結果は明白だ。彼らがぶる下がることで、競争力を持つ人間の足を引っ張ることになる。日本の競争力低下の原因はここにあるのだ。だから、日本の国としての競争力を復活するためには、競争力を持つ人材を重視し、その価値を尊ぶ社会を作ることが必須である。そのためには、「二極化」は極めて好ましい第一歩である。

「密教徒と顕教徒」は別の世界に生きるべきなのだ。匿名で代替性のある「大衆」と、競争力を生み出し付加価値を生み出す「天才」とが、同じ人間という名の元に全てが同じに扱われるのはおかしい。もちろん、生物学的にホモ・サピエンスであるという意味で、平等に扱われなくてはいけない「基本的な人間の尊厳」というものがあるのも確かだ。だからといって「人権」の名の元に、全ての違いを無視し、あらゆるものを強制的にフラット化してしまうのはどうかんが得てもおかしい。一位でもビリでも、得られる商品も名誉も同じなら、誰も努力しようとしない。それでは、活力をそぐだけである。

今の日本を語る以上、結論は一緒である。「自立・自己責任」に基づき、能動的に行動できるヒト。ノブリス・オブリジェに耐えられ、義務と責任を全うできるヒト。この人達が自由に行動できるよう、足を引っ張るもの、スネをかじるものが居なくなることが、なにより日本の活性化には必要である。それには、「自立・自己責任」層と「甘え・無責任」層が、同じレベルで扱われる社会を脱することが不可欠である。だから、二層化が教育の現場で本当に進んでいるのなら、それは日本の未来にとってすばらしいことではないか。それを問題視し、また悪平等に戻そうとする「良識派」の連中こそ、アカであり悪なのだ。

(02/08/02)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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