正直者は報われるべき





住民基本台帳ネットワークの運用開始以来、個人情報保護やプライバシー問題への議論がまた喧しくなってきた。ぼく個人の意見としては、何度も主張しているように、そもそも個人情報は全てディスクロージャーすべきであるという立場なので、基本的には、国民総背番号制は賛成だし早く導入すべきと考えている。しかし、今回の住基ネットについては、それを運用する主体が、既得権益にまみれた役人というところに問題がある。公明正大なヒトが得をするはずのシステムが、最も公明正大から遠いところにある、人品卑しき役人によってコントロールされたのでは、敵にリモコンの渡った鉄人28号である。これでは意味がない。この問題の構造を明らかにする意味でも、もう一度、ディスクロージャーの意味を考えてみよう。

特定の人間の所得金額が完全に把握され公開されて、それで困るのは誰か考えてみよう。公明正大に生きている人間で、正確に所得額を申告し、キチンと納税している人間であれば、所得金額が把握されようと公開されようと、何も困ることはない。もっというならば、世の中の多数を占める給与所得者であれば、本人が望むと望まざるとに関わらず、正確に所得額を申告し、キチンと納税させられているワケだから、現状とは何も変わらない。さらに、どの企業のどういう役職についているかが判れば(多くの場合、これを隠す人はいない。それがイヤなら、会った時にまず名刺を渡さないハズだ)、年間所得がどのレベルかもおよそわかる。

ということは、真面目に生きている給与生活者は、所得に関してディスクローズされても、何ら困らないことになる。実際、勤務先の企業が、そういう人件費の内訳も含めてディスクロージャーを推進しているのだから、隠す意味がない。ということは、所得の把握・公開に否定的な人達は、それなりの理由があることになる。それは、不公正な裏金(それはしばしば利権やバラ撒き行政と結びついている)を貰っているか、脱税してブラックマネーを作るべく、所得隠しを行なっているか、どちらかである。要は、本人が悪いことをしているからこそ、正確な把握・公開に反対しているのだ。その意味においては、いわゆる「抵抗勢力」と全く同じである。

もちろんこれは、「今の税金の使われ方がいいのかどうか」、ということとは別問題である。全く無意味な補助金や公共事業が多く、それを運営するための過剰な公務員も多数いる状況では、税金として徴集される額が、適正レベルより過多であることは否定できない。とはいうものの、それと所得隠しは別問題である。「役人が悪いから、納税者も悪いことをしていい」では、全くもって「無責任vs.無責任」の構図になってしまう。役人が悪いからこそ、納税者が「襟を正す」ことで、「無責任で悪の役人」vs.「自己責任で正義の納税者」という対立に持ち込め、正当性が生まれるのだ。

たとえば制度として、銀行の架空口座を排し、実名口座のみとし、さらに名寄せを行い一本化する。これにことにより、各金融機関ごとに、特定の人間が保有している口座、およびその預金残高が的確に把握できる。隠し金や、不正蓄財の多い人にとっては、これは困る事かも知れない。しかし、正直に生きている人にとっては、何ら困る事はない。逆に、正直者が損をするコトがなくなる分、間接的なメリットの方が大きい。また、口座が分散していたときには、万が一、自分が忘れてしまい、把握できなくなった資産が生まれてしまうかもしれないが、それで「資産隠し」と言われたのでは立つ瀬がない。そういう危険性も防いでくれるだろう。

同じく個人情報を全てディスクロージャーしている人と、秘密がたくさんある人がいた場合を考えてみよう。第三者から見て、ディスクロージャしている人は、少なくとも見えている以外の裏がない「公明正大で正直な人」と見えるはずだ。もっとも、見えているデータがどう評価されるかは別問題である。その一方で、秘密がたくさんある人については、相対的に「悪いことをしてそう」「陰で何かやっていそう」というダーティーなイメージがつきまとう。実は何もやっていなくても、秘密があるというだけで「悪役」になってしまうのだ。そうであるなら、そもそも公正で正直に生きている人なら、ディスクローズすることに何も問題はないはずである。

もちろん、これは「他人のパンツの中など見たくもない」というヒトにも、卑猥なものを強制的に見せようというものではない。それは、情報公開ではなく露出狂である。ディスクロージャーというのは強制的に見せつけることではなく、 見たいと思ったヒトに確実に情報が伝わることである。ここをはきちがえてはいけない。プライバシー公開に対する抵抗感の一つとして、「他人の見たくはないモノも、見させられる」と思っているヒトが多い。しかしそれは勘違いである。公開とは、「聞かれれば正しく答える」こと。そのためには、自分の状況を、自分自身が一番正確に把握し、ヒトに説明可能な状態にしておく、ということなのだ。

「自立・自己責任」で生きている人は、常に公明正大にし、正直に生きていかなくてはいけない。自立・自己責任とは、「自分に正直」なことと表裏一体をなすことだ。「自立・自己責任」で生きていれば、何も世間に隠し立てすることはない。聞かれれば全てディスクロージャー、それはおのずと身についている。「嘘」や「隠し事」は、自分の逃げ場を作るという意味では、甘えの一種である。そして、ディスクロージャーとは、自らそういう風除けを絶つことにより、自分に厳しくすることに他ならない。プライバシーの保護や、個人情報の保護、というのも、結局は、他人の目の見えないところでは「旅の恥はかき捨て」とばかりに悪いことをやっている、無責任なアカの連中の甘えなのである。

(02/08/09)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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