八百万の甘え






日本人を語るときに、良く使われる切り口が「一神教と多神教」の違いだ。キリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、どんなものにでも「神」を見出して信心してしまうところに、日本人の特徴を求めようというものである。そういう文脈から、「日本人の宗教観は多神教だ」といわれるが、よく考えると、古代においてギリシャや中央アジアに見られた多神教と、日本人の信心のあり方とは、かなり意味合いが異なる。役割が異なるいくつもの神が存在し、チームプレイをするのが「多神教」である。しかし、日本人の信仰は、たくさん「神」が存在するともいえるが、実は一つの神が、カタチをかえてあらゆるところに偏在している、と見ることもできる。

厳密には、多神教ではなく「八百万の神」という、「ヌエのような神」が全てのものに宿っている、という「神」のイメージである。この場合、信心の対象の数や種類が問題なのではない。「神」が超越存在でなく、日常の中に普遍的に存在するもの、というところに特徴がある。日本人の宗教観を一言でいうのなら、この「神と現実が同じ地平にある」ところがポイントなのである。要は、信仰が「融通無碍」なのである。超越存在ではないから、絶対的な正義、絶対的な真理は存在しない。本来、宗教で求められるべき「真理」がなく、正しさはその場その場のご都合主義でいかようにも変わりうるし、決められる。これこそが、日本人の宗教観の本質である。

そもそも、宗教と真理とは切り離せない関係にある。相対立する二つの存在があったとして、一神教的「神」は、どちらかのみに味方する。だからこそ「神は一つ」なのである。そして神の味方する勢力が「正しい」存在となる。それゆえ、どちらの立場を「正義」とするかによって、違う「神」が成立し、そこから違う「宗教」が成立してしまう。だからこそ、あらゆる対立の中で宗教的対立ほど根深く、根源的な抗争になるものは他にない。しかし「八百万の神」は違う。相対立する両者がいたとしても、どちらも「神」の化身である。どちらが正しいということはなくなる。

この「八百万の神」の持つ融通無碍さは、個人の主観的なもの、たとえば「好み」とか「美学」とかについていうのなら、これは多様性を担保する大変すばらしいスタンスに見える。納豆が好きでも嫌いでも、激辛が好きでも食べられなくても、それは各々違う「神」のご威光なのである。極めて平和でよろしい。しかし、善悪判断の問題となると、これはゆゆしきことになる。「八百万の神」的な価値観に基づく限り、絶対的には、善も悪もない。善悪判断は、あくまでもその場の相対的なものでしかないということになる。一人の人間の中でも、TPOにより、あらゆるスタンスが許されることになる。

まさに、この発想は、人が見ていなければ、他人の自転車を勝手に失敬してもいいとか、バレなければ何をしてもいいとかいう、日本人特有のご都合主義そのものである。多くの日本人にとって、絶対的に正しいこと、絶対的に悪いこと、という基準はない。他人の目があればやらないが、見てないならやっても良い、という発想につながる。その意味で、この「融通無碍さ」こそ、日本人の意識や行動を特徴付けている基本的な要件と見ることができる。まさに「八百万の神」とは、「寄らば大樹の陰」で甘える対象、ズルするときに風除けになって目隠ししてくれる存在なのである。

現世に与えられた「運命」に忠実に生きるべく努力することで、来世において救われる。大乗的というか、各信者自身が出家することによって救われるというスタイルではなく、専門の宗教家と信者とが分離してからの、大衆化以降の宗教のあり方の基本は、そこにある。社会が発展し、階級や機能が複雑化し、分業により人間集団を運営してゆくやり方が基本になる。それとともに、分業の一つとして専門の宗教家が生まれる一方、一般の信者は、出家生活のように現世から切り離された宗教生活を行なうことで救済されるのではなく、現世での社会的分業の「仕事」を勤勉にこなすことで「救済」されるという教義が求められた。

どの宗教でも、近代の大衆化社会に向かって社会が変化してゆく中で、このような教義の再定義がもとめられ、それに対応できた宗派だけが生き残った。もちろん、日本でも鎌倉仏教のように、この流れに沿ったカタチで宗教改革が進んだ。たとえば親鸞上人の浄土真宗の考えかたなどは典型であろう。しかし、日本の庶民のしたたかさのほうが上手だったというべきか。それは元来、「現世での努力が救済につながる」という意味のはずだった「他力本願」が、文字通り「何も努力しなくても、あなた任せで救済してもらえる」という意味になってしまったコトからもわかる。

そもそも日本人が「宗教」と疎遠なのは、もともとご都合主義的な発想に染まっていて、ある種の「スジを通す」ことというか、損してでも「正義」を貫くという発想に欠けているからである。「多神教」だからではなく、そういう超現実主義だからこそ、自分にとって都合のいい「神」しか信じない。これがより正確な表現だ。決して無宗教なのではなく、森羅万象の中に神が宿るというように、ご利益も救済も、すべて現実の中で完結している宗教を信じているのだ。そういう意味では、日本人は「花より団子」というか「来世の救済より、現世のご利益」なのである。

これをつきつめていけば、「甘え、無責任」の発想になるのは言わずもがなだ。日本の大衆というのは、宗教とて自らの「甘え・無責任」を正当化するための道具としてしまう。なにをかいわんやである。八百万の神とは、八百万の「甘え」を「偶像化」したものだ。必死にすがれば、どんな甘えも正当化してくれる。こういう根性を持っている連中に、権利や責任を与える方が間違っているのだ。この矛盾に気がついた人だけが、「自立・自己責任」をバックアップしてくれる「正義の神」を信じればいい。要は、気がつくかつかないか。本人の意識の持ちようの問題に過ぎない。

(02/08/16)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる