逃げる人達





またもや輸入牛肉のすり替え事件が発生し、マスコミは大騒ぎ。スーパー店頭では件のメーカー製の食肉加工品を排除すべく大童である。もともとメーカーブランドのない食肉部門の不祥事で、たまたまメーカーブランドが表に出ているハムやソーセージが袋叩きに合うというのもオカシな話だが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、すぐ理性を置き去りにして感情論だけで突っ走るのが日本の大衆文化である。こういう自体になると、ほとんど「集団リンチ」状態である。

しかし、店頭からそのメーカーの製品を排除し、そのメーカーのトップのクビを挿げ替えたからといって、本質的な問題の解決になるワケがない。逆に、そういう「不祥事」を起こすに至った真の原因を隠蔽し、その体質を温存させる可能性のほうが高い。そう考えれば、こういう展開になること自体、本当に問題を解決しようと思っていない人が多いコトを示していることが判る。「魔女裁判的発想」とはそういうものである。

そもそも、日本の農業や畜産業自体が、政府の保護を前提にして成り立っている業界であり、健全な競争力を養い、事業としての基盤を確立しようという発想を持っていない。補助金や利権に浸りきった業界ゆえ、「権利としての役所のお金」を得るためには、多少のコトをしてもかまわないという発想が行き渡っている。こういう業界なら、多少のウソをついても、少しでも多く「補助金」をせしめようという発想になるのも当然である。

こういう利権を得ている側からすれば、人身御供に責任を押し付け、利権システム自体を温存したいと思うだろう。まさに人身御供さえ提供できれば、その裏で多くの人間が今まで通り「甘え」られる。これもまた「甘え・無責任」的なメンタリティーそのものである。期待しているのはそちらのほう。それを本能的に嗅ぎ取って、魔女裁判にしているのだ。本質的な構造の解明や、問題の解決をあえて遠ざけるためにこそ、必要以上に騒ぎ立て、「悪玉」を作り上げてしまうのだ。

このような「集団甘え」の発想は、いまでも日本の至るところで見られる。たとえば地方では、そもそも取締りがなければ、クルマで居酒屋に行って、酒気帯びで帰ってくるのが常識、というところも多い。たまたま捕まっても、それは運が悪かっただけのコト。誰かが取締りで罰金を取られたとしても、多くの人にとっては生活習慣自体を変えるような動機にはならない。捕まえる警察官のほうも、職務上最低限のノルマとして取り締まりはするが、決して体質を悪いとは思っていなし、本人も非番なら、クルマで飲みに行く。それと同じコトである。

こういう「臭いものにはフタ」の無責任さは、当事社の辞職するトップにも言える。ただヤメれば良いわけではない。本来ならば、問題を解明し、二度と起きないような方法論を築くことが、当事者の責任である。もしヤメるとしても、ヤメるのはそれを成し遂げてからでなくては、責任を取ったとは言えない。悪いコトをしたのだからこそ、償いが必要である。トップが償いをしないでヤメてしまうのは、単なる逃げである。しかし、周りの皆が皆「集団甘え」なのを良いコトに、無責任にヤメてしまうのだ。

ブレーキが壊れた暴走機関車を止めようと、最後まで努力して殉職した機関士の美談が語られることがある。これはまさに責任感の発露であり、ノブリス・オブリジェと呼ぶにふさわしい。その一方で、自分のミスで飛行機を墜落させたにも関わらず、真っ先に逃げ出した機長がいた。これはまさに無責任のきわみである。責任逃れに自殺する人のメンタリティーは、この逃げる機長と同じである。前にも書いたことがあるが、日本人の好きな「引責自殺」は、究極の無責任である。「死人に口なし」とばかり、それでウヤムヤになってしまうからだ。

責任を受け止められないヒトが、その地位を投げ出すということは、その人にとってメリットこそあれ、自分の与えられた責務をまっとうすることにはならない。そもそも、「甘え・無責任」な人たちに、きちんとした責任を取らせようというほうが間違っている。責任ある地位には、「自立・自己責任」な人を据える。「甘え・無責任」な人には、もともと責任を取らなくて良いポジションしか与えない。基本はそこなのである。無責任な人が、どこまでも無責任にいられる社会を目指し、それをかなりの完成度まで高めてしまった日本社会。これを立てなおすには、この「基礎・基本」にもう一度立ち戻る必要がある。

(02/08/23)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる