モチベーションとしての「差」






文部科学省は教科書の範囲を超えた「発展的学習」や、基礎をじっくり学ぶ「補充的学習」の参考となる教師用指導事例集の小学校算数版を公表した(読売新聞平成14年8月23日朝刊)。読売新聞を引用したのは、単にトップ記事ということで、別に読売に何らかの恨みがあるわけではない。この事例集自体文教行政の常で、主体的には明確に方針を出さず、あと付けで時流に合わせた枠組だけ提示し、現場に任せてしまうという例のパターンである。そういうコトでその中身はどうでも良いのだが、問題は、この方針が記事に見られるように、「ゆとり教育修正」というように解釈されてしまう点である。

文部科学省のレベルではなく、「臨教審」以来の、本来の「教育改革」の文脈でとらえるのなら、この事例集は運用次第とは言え、まさに本来のゆとり教育の趣旨である、「基礎・基本の習得がやっとの人間には、じっくりと基礎・基本だけを教える」一方で、「それ以上の才能や可能性を持った人間には、それを伸ばすチャンスを与える」コトを可能にする、大いなる発展性を秘めている。そういう意味では、ご都合主義というそしりは免れないものの、文部科学省の政策としては、消極的にではあるものの、それなりに評価できるものである。

それが、すべての生徒に一律に「教科書を超える指導」を行う、とアプリオリに捉えてしまうところに、悪平等社会の片鱗が見え隠れする。なんで、全員に同じ指導でなくては行けないのか。悪平等に基づく教育それ自体が、悪平等の再生産である。すべての人間に対して、同じ条件が与えられなくては行けないという主張は、まさに「共産主義」である。「違う扱いはイケないこと」。こういう「アカ」の発言には悪寒が走る。一体どういう視点から見れば、すべての人間が一律に同じことになってしまうのだろうか。

もともと人間の個性は一人一人異なる。百人いれば百様の個性、人間性がある。その違いを生かすからこそ、社会が発展する。その違いに目をつぶり、「人間は誰でも同じ」と決めつけてしまっては、停滞が待っているだけだ。それが東側の諸国が立ち行かなくなり、結局鉄のカーテンが崩壊した原因の一つにもなっている。悪平等社会の元では、努力しようが、努力しまいが、分配されるものは同じ。それならば、努力せず、手を抜くに限る。

こういう社会が、発展するわけがない。確かに、分け与えるもの自体がほとんどなく、「皆が平等に貧しい」間はそれなりに機能する面もあるだろうが、それなりに生産が行われるようになると、バカ正直な性格のモノ好き以外は、みなズルを決め込むことになる。中国において、人民公社方式をやめ、個人生産の成果を自分のものにできるようになってから、一気に経済発展が起こったことが、なによりこの事実を示している。

良いモノをより伸ばし、よりチャンスを与える。それがなくては、社会の質的発展はない。そのためには、「差がつくこと」はいいコトなのだ。勝ったものが総取りできなくて、誰が絶対に勝とう、という気になれるか。負けたものが徹底的に打ちひしがれることがないなら、誰が負けたくない、という気になれるか。「悪平等社会・日本」には、このモチベーションが皆無である。そこが日本の悪いところだ。これでは、量的発展(量的発展には、ある意味で悪平等は効果的)はできても、質的発展はできない。

今の日本に必要なのは、差がつくことを認め、それに基づき各人が差をつけるべく努力することなのだ。そのためには、初等、中等教育の段階から選別を行い、能力別のライフパスを進めるようにすることが必須である。能力の異なるものが違うクラスターに分かれれば、互いに干渉することもない。当然、能力の低い側が、悪平等に基づく再配分を要求し、能力の高い側の足を引っ張ることもなくなる。

ただし、これには大きな問題がある。選別するには、選別される側より高い能力を持つことが前提となる。したがってそれの機能は、今の教育界には期待できない。教育界は、能力の低い人材が集まっているからこそ、悪平等を指向する傾向が顕著である。この面では、いつも言っているように、文部科学省に代表される教育行政の側も、日教組に代表される現場の側も、全く一心同体である。そのためには、これまたいつも主張しているように、教育現場にも競争原理、市場原理を導入し、高い能力を持つ教育者ほど、教育界において多くのチャンスが得られるように改革することが先決となる。

「判官びいき」が横行している間は、日本の復活などありえない。強いもの、優れたものを素直にたたえ、評価する国になってはじめて、活力が生まれる。この変革はボトムアップでしか成し遂げられない。あらゆる場面、あらゆる状況で、より高い能力を持ち、それを磨く努力をしたものが勝ち、チャンスを得る。活性化した社会とはこういう社会なのである。何も努力しないでも、右肩上がりの波に乗っただけでいい思いができた高度成長期の日本社会は、そういう意味では決して活性があったわけではない。悪平等の意識を変革してはじめて、日本は活性化できるのだ。

(02/08/30)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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