「甘え史観」を糾弾する





いつも問題になるわりに、どうどう巡りを繰り返し、結論に至らない議論の一つに、第二次世界大戦中の日本軍が虐殺、略奪、強姦といった残虐行為をやったかどうか、というものがある。戦後の戦犯裁判では、数多くのBC級戦犯が、そういった住民への残虐行為で有罪になっていることからみても、全くそういう事実がなかったと言うことはできない。もちろん戦犯裁判においては、勝者が一方的に敗者を裁くという意味において、大いに偏向があるのはまちがいないのだが、キチンと法治に基づいて裁判が行われた判例も少なくないだけに、そのような事件があったとことは否定できないだろう。

しかしその一方で、旧日本軍の将校や兵隊の中でも、そういう残虐行為に荷担したり、関わらなかった人のほうが多数である、というのも事実だ。それだけでなく、将校や兵隊たちが残した、戦場における現地の人との美談があることも事実である。残虐行為があったとしても、それはすべての戦場、すべての占領地で必ず行われたのではない、と認識すべきだ。それなりに多くの事例が見受けられるとしても、どちらかというと、限られた例として考えたほうが良いのだろう。客観的に見れば「あることはある、しかし全てではない」という状況である。

そういう意味では、これらの不幸な事件は、戦場という極限状態で、個々の部隊の構成員の人間性があらわにされた結果発生したものである。したがって、これらの事件はあくまでも、組織責任というよりは、その構成メンバーの責任に帰するべきものである。人徳の高い司令官に恵まれたり、人間性の良い人が多かったりした部隊では、人道的な美談に通じるエピソードが生まれる。その一方で「旅の恥はかき捨て」的な、他人が見ていなければちょっと失敬、というメンタリティーの人が多い部隊では、第三者の目がない戦場では、当然なんかやらかしたであろう。

そう考えると、軍という組織を考えた場合、組織そのものの中に、残虐行為を行うコトがミッションとしてビルトインされていたとは考えにくい。こういう状況をキチンと認識していれば、「軍」という「組織」を主語にして、残虐行為をやったかどうか、という問いが無意味であることは明確だ。個々の部隊、個々の兵士が、軍全体としての命令の外側で何をしたかということを問わなくてはいけない。そもそも関東軍のように、中央の指令を無視して戦闘をはじめてしまうことさえある軍隊なのだから、誰も見てないところで、悪いコトをする人がいたっておかしくはない。

残虐行為の問題は、このように軍としての規律・モラルの外側で、個々の構成員が何をやったかという責任問題に帰してはじめて把握できる。しかし、ここに旧軍隊の構造的問題がある。旧軍隊は、「甘え・無責任」な「顕教徒」たちにとって、組織の名の元に個々の自己責任を問われない、「日本型組織」の典型である。そこにおいては、本来自己責任を問われる領域の行為も、「天皇陛下の命令」の下、組織的責任に帰し、自分の責任は問われない状況にすることができる。彼らは、なんとしてもこの構造だけは守りたいのだ。だからこそ、「やった・やらない」の不毛な議論になってしまう。

自分の肝っ玉が据わっていない分、「寄らば大樹の陰」で強い国家や国旗にすがりたがる、ウヨクの方々は「やらない」という。負け犬の遠吠えで、何でもカンでもお上を頼ってワケてもらおうとする、サヨクの方々は「やった」という。ところがこの御両人、「甘え・無責任」で、すがれる「組織」を探すというところにおいては、全く共通している。55年体制での、自民党の金権政治家と、社会党の労働組合の関係を、もっと極端にしたようなものである。どちらにしろ、自ら「自立・自己責任」で行動しないし、できないという点においては全く「同じ穴のムジナ」である。

したがって求める組織論も、「甘え・無責任」のよりどころたりうる、スネをかじりまくっても「ヨシヨシ」と抱っコしてくれる、いったんコトがあれば、風除けになって守ってくれる、母親のような組織が理想像となる。個々人に厳しく、責任を求めるような組織は、彼らにとっては持っての外。だからこそ、あくまでも個々人の人間性を問うことなく、元来人格のない「組織」の意思がどこにあったかを問うのである。だから、「やった、やらない」の二元論になるのだ。この議論の中に、ウヨクだろうとサヨクだろうと、「顕教徒」である彼らの求める組織の理想像が潜んでいる。ここを見抜かなくてはならない。

彼らにとっては、そのスタンスがウヨクでもサヨクでも、組織に責任を帰することで、自分が甘えられる環境こそが大事だ。そして、その「顕教徒的組織論」を守ることが至上命題なのだ。そもそも悪平等をこよなく愛するサヨクの方々は最初から無視するとしても、相当に右よりのスタンスを基本としているぼくとしては、こういう「『甘え・無責任』のウヨク君」はちょっと許しがたい。とはいうものの、こういう人に限って、最高の大樹としての「強力な国家主義」を欲したりするのだから困ったモノ。はっきり言ってそんな連中は、十把ひとからげで「議論以前」のモノ。偉そうに「国家」とか言ってほしくない。

やった人はやっただろうし、やらなかった人はやらない。これだけが歴然とした事実だ。強姦にしても、略奪にしても、誰にも見咎められない状況に置かれたとき、その人が悪いコトをやるかやらないか。それはあくまでも、その状況に出くわした人、一人一人の人間性の問題なのである。組織のメンタリティーや本性がどこにあるという問題ではありえない。それだけに、そういう主張をする人自体が、責任を組織に押し付け、個人として自己責任をとることを回避しようとする人たちということになる。問題はこれだけ。どんな状況でも、甘えることなく、自己責任で行動できる人ならばそもそも論争になりようのない問題だ。大事なのはこの点である。

(02/09/06)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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