「判官びいき」の欺瞞





日本人の特徴の一つに「判官びいき」というのがある。「弱いもの」贔屓である。これが日本の大衆の特徴とされている。しかし、受け手の側、というか観客としての大衆を考えれば、彼らはけっして「弱いもの好き」というわけではない。かつての「巨人・大鵬・卵焼」ではないが、基本的には大衆は強いものが好きである。これは日本の大衆とて変わらない。かつての仁侠映画で強い健さんに感情移入した人も多いだろう。水戸黄門が人気があるのも、結果的に印篭を出すだけで皆がひれ伏す、強い権力をもっているからである。ウルトラマンだって強いから人気がある。

そういう意味では、日本人の「判官びいき」にはほかの理由があることになる。それは「弱者」であるほう、「弱者」を装うほうが「得」になることを知っているからだ。そういう意味では、これは大衆的な意味での「観客」の感覚ではない。あくまでも受け手の感覚ではなく、送り手、作り手サイドの感覚である。受け手としては強いものが好きでも、自分が当事者ということになると、弱いものを装ったほうが得なので、そちらに感情移入する。このご都合主義こそが、「判官びいき」のモチベーションだ。

したがって、彼らは決して「弱いものの味方」ではない。自分自身が強くもないのだから、自ら「弱いもの」を救うわけではない。「弱いもの」の側につく、自らが「弱いもの」であることを装うほうが、おいしい思いにありつけるから、そうしているまでにすぎない。自分が努力をせず、弱いところを弱いままにしておいても許されるスキームを作り出している。もっとはっきり言うと、「弱いもの」の周りに利権がある、ということである。利権にありつくには「弱者」のほうが良いのだ。

自分が自助努力をしないこと、そして利権にありつくこと正当化する手段として、「弱いもの」を使っているに過ぎない。こういう心理が定着したのは、伝統的な「政策の評価基準」と密接な関係がある。本来なら、産業育成政策とは、「強いものをより強く」するものでなくてはならない。相対優位な分野に、集中的にリソースを投入し、圧倒的な優位を確立する。そういうスタイルの「産業育成」なら、世界中どの国でもやっているし、たとえば市場中心のアメリカだって、そういう政策を取っている。ある意味で、規制緩和、自由化などは、強いものをより強くする産業政策である。

しかし、もともと「出る杭は打たれる」という悪平等指向の強い日本では、なかなかその論理は成り立たない。強いものより弱いものの方が数は明らかに多い。そもそも優勝者というのは、競技の参加者が何人いても一人しかいない。日本社会が全体の最適化ではなく、全体の悪平等化を指向する以上、数の多い「弱者」に集中的に保護育成を行うこととなる。よって「弱者」を対象としたほうが、エクスキューズが成り立ちやすくなる。判官びいきの本質はここにある。しかし、それは弱いものをより弱くすることになる。

牛肉買取問題や、輸入農作物へのセーフガード問題など、ここのところそのばら撒き体質の破綻があからさまになった農政などは、まさにその典型だろう。本当にビジネスとして農業に取り組もうとしている人達にとっては、保護主義の農政こそが天敵である。競争力を持たせようと思っても、「弱者保護」のための規制により、競争力をもち得ない。日本で農業が自立できない理由は、高地価でも高労働コストでもなく、利権を守るために作られた、農業関連の規制なのである。これこそ、日本に染みついた「弱いもの贔屓」体質の本質である。

「判官びいき」とは、正義でも何にもない。それは「弱いもの」を演じることにより、おいしい汁にありつく仕組みを正当化するための言い訳でしかない。単なる甘えなのだ。まさに「甘え・無責任」が跋扈する日本の本質。甘いものをしゃぶりまくって、吸えるだけ吸い付こうという体質の象徴である。最初に述べたように、大衆は元来強いものが好きなのである。そして、大樹にすがるのが好きなのである。それならば、自分が送り手の側にならず、素直に強いものを応援して、それにくっついて行くようにすれば良いだけのことである。

大衆は素直に「強いもの」にあこがれ、頼りにする。その一方で、「強いもの」が本当に強く、頼りになる存在になれることを、社会的に担保するシステムを築く。大事なのはここである。公共事業や税金による支援がアプリオリにイケないと言っているのではない。それが、「強いもの」から収奪したもので「弱いもの」を存続させ、悪平等を維持拡大するための再配分になっていることがイケない。それは共産主義だ。そういう意味では、族議員というのは、日本史上もっともマッカッカのアカだ。こういう邪な存在を許さず、強いものがより強くなるという、キチンと筋の通った社会になること。これこそが日本再生の王道である。

(02/09/13)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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