人命尊重もほどほどにしろ







小泉首相の電撃的な北朝鮮訪問以来、「拉致」問題が大いにメディアを賑わせている。死亡が確認された犠牲者の親族の悲しみについては、極めて深いものがあると察して余りある。個人というレベルでは、お悔やみの気持ちを捧げるものである。しかし、それに関する周囲の騒ぎ方については、いささか疑問符をつけざるを得ない。シュレディンガーの猫ではあるまいし、少なくとも公表されるか否かに関わらず、すでに死亡していた人は生きては帰らないのは、紛れもない事実だ。その事実は公表の有無とは全く独立の事象である。公表されたから騒ぎ立てるというのは、いささか筋が違うのではないか。

そもそも、彼の国とはいまでも正式な国交はない。それに加え、拉致が多発した時期は、冷戦がもっともホットだった時代である。まさに冷「戦」と呼ばれるように、鉄のカーテンの向こう側の国々とは、戦争状態にあったのである。戦争状態にある以上、相手国との間に「交戦」が起こってもおかしくはない。そして交戦があれば、戦闘要員はもちろん、一般市民にも犠牲が生まれるのが、20世紀の戦争である「総力戦」の常識だ。日本人はのほほんと平和をむさぼっていたが、その状態が平和ボケなのである。その時代の日本の置かれていた状況は決して平和ではなく、戦争状態だったのだ。

そういう中で、敵国に「拉致」されると言うことが意味するコトは何か。ちょっと考えてみれば判るだろう。余程人質としての価値でもない限り、敵国人のお世話をして生かしておくなどという悠長な選択ができるわけがない。となればこそ、拉致された時点で最悪の結末は予測しておかなければならないことになる。そういう意味では、周りの人間もまた「戦時」であることを意識し、覚悟が必要ということである。そもそも自国の存立基盤を自分で勝ち取らなくてはならない、世界の多くの国や民族にとっては、平時にあっても、お国のために命を賭ける覚悟は、全ての国民が共有すべきものである。

日本人は、いつからこんな腰抜けになったのか。「拉致」され死亡した人達は、立派にお国のための貴い犠牲となったのだ。だから、ここで国民のなすべきことは、「死んでしまった、どうしてくれる」という、「無責任な大合唱」に参加することではなく、お国のために命を捧げた彼ら、彼女らを、称え奉ることだ。民間人ではあるものの、立派にお国のために英霊となったのだから、靖国神社に御霊を奉るべきだ。なぜそれを主張する者がいない。これこそ日本国民としてやるべき行動である。それを「人命尊重」をかかげ、怒り、またすすり泣くというのは、非国民、アカである。

お国のために命をかけられないのでは、国を守ることはできない。お国のために死ねるものがいなくなったのでは、戦争もできないではないか。こんな国が成り立つわけがない。お国のために命を捧げることは、匿名の大衆にとっては、生きている以上の名誉のはずだ。お国のために死んだ者について、交通事故死と同じように、「相手の責任」や「損害保証」を語っても始まらない。それを単なる個人のエゴイズムで置き換えてしまうとは、日本人は人間の尊厳自体を捨ててしまったことになる。そんな「甘え・無責任」な人間ばかりの集団は、もはや「国」ではない。

もちろん、言論の自由、思想信条の自由は最大限尊重するべきである。亡くなった方の親族にとっては、「国」より自分の身内の命のほうが重く感じられることは充分理解するし、当事者がそういう主張をすることもこれまた当然だと思う。また「国より自分のワガママが大事」という人達についても、勝手に主張することは自由である。しかし、良識、知性を以てする人達まで、そういう「ワガママな人道主義」を主張し、それこそが世の中の正道であるとするような論調は断固として許しがたい。

甘え・無責任なエゴイズムが「良識」とされるようでは、世も末である。お国のためなら、人権などあり得ない。この国は、そこまで「甘え・無責任」な連中がのさばるようになってしまった、ということなのだろう。いっそ、そういう連中は全部まとめて「拉致」して貰いたいぐらいだ。多くの人が誤解しているが、軍隊や戦争がアプリオリにいけないワケではない。戦後の日本では、こういう問題に触れることすらタブー視される傾向が強かったが、これだけはキチンとしておかなくてはならない。

かつての日本軍は、「甘え・無責任」な人が支配した軍隊だったからこそ、いろいろ問題があった。「自立・自己責任」な気高い人たちで構成される軍隊なら、何も問題はない。逆に、旧軍隊は解体されたものの、「失敗の本質」ではないが、旧軍隊で問題を引き起こした体質は全て温存され、戦後社会の基調となっているところに問題がある。そう考えれば、「拉致」問題の論調に象徴されるような甘えを排し、お国のために命を捧げた人々を素直に称えることができる社会にすることが、日本を復活させるためにもっとも求められることであることが判る。これができるかできないか。できない無責任なアカの人達には、日本人をヤメていただきたい。このままでは、日の丸が穢れてしまう。


(02/10/04)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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