多軸の世紀






このところなにか議論している人達の間で、そもそも言葉自体が噛み合わないまま、話題が平行線をたどるという場面に良く出くわす。たとえば最近の話題では、「景気がいい、悪い」というのもその一つだろう。「今」の状況や、「構造改革」の必要性を語るとき、何をもって「景気がいい」と見るのか。一方で20世紀的、産業社会的な文脈でしか「景気」を捉えられないヒトがいる。その一方で、新たな21世紀的なスキームで、違う指標を捉えているヒトがいる。景気対策vs.構造改革の議論自体が、この視点の違いを象徴している。

今が「景気が悪い」と見る産業社会的な価値観を持った人達にとっては、何よりもまず景気刺激策や公共投資が必要ということになる。彼らにとっては「景気」とは、あくまでも即物的、量的な話でしかない。その一方で、景気の良し悪しを右肩上がりの量的なものではなく、「より質的な高度化」という視点から見る人達も同時に存在している。彼らにとっては、現状の旧態依然とした社会システムや社会構造こそが、そういう高度化の足を引っ張り、「景気」を悪化させているということになる。このように、まさに価値の多様化、多軸社会の到来が現実のものとなっている。

これは、昨今の議論されることが多くなった「国家観」についても言える。個人を語る前に国家なのか、国家を語る前に個人なのか。一連の拉致問題の議論で、この落差は極めて明瞭になった。一方で、「寄らば大樹の陰」と甘える対象としての「強い」国家を求める人達が極めて多いことが明確になった。この視点からは、自民党の「守旧派」も、社民党や共産党も同じ穴のムジナということが誰の目にも明らかである。その一方で、本当に世界の中で毅然としていられる「日本」という国のプレゼンスを求める人達も現れている。

具体的には、国家間の歴史的な国際問題を解決するためには、個人の犠牲は仕方がないと考えるのか、あくまでも、国家は個人が甘える対象であり、常に国家は個人を守るために存在しているのか。この落差が一番の議論のポイントであり、かつての右翼、左翼のような論点の違いは、ここには存在していない。いわば、「自立・自己責任」モデルか、「甘え・無責任」モデルかという議論を問うことが、はじめて可能になった。また、護憲・改憲論や、歴史観についても、つまらないイデオロギーの呪縛から逃れて、多様な議論が可能になったことは喜ばしい限りである。

地方自治においても「多軸」というと視点が現れてきている。長野県の田中知事などが、その代表だろう。もちろん彼の政策については、個人的には、どちらかといえば否定的に捉えているものも多い。しかし、そこはそこ。まさに多軸である。評価できない部分がある一方、評価できる部分もキチンとある。かつてのような、定型化したイデオロギー的な論点の組合せでは解けないようなスキームを提示し、多軸的な議論が必要であることを明確化したという点は、個々の政策の評価とは別に、大いに評価しうるものであろう。

今の時代を考える上で難しいのは、新しいスキームが顕在化したことこそ確かだが、すべてがすべて、新しいスキームになったということではない点である。量的に言えば、今でも旧来の20世紀的、産業社会的なスキームにとらわれているヒトが多数を占めることは間違いない。しかし、産業社会的な、なんでも一つの軸で捉え、その量的評価のみを基準としてモノを考えるやり方だけでは済まなくなっている。未だに「単軸」な人達も内包しながら、より多くの軸を持っている人達も並存している状態となっているところが大事なのだ。

軸がたくさんあることに気づいているヒトもたくさんいる。そしてその軸は複雑に絡み合っている。だからこそ、冷戦の時代のような単純なスタンディングポイントの対立ではなく、一人一人の立場が問題によって各々違い、ホットイッシューごとに、合従連衡を行わなくては、物事が解決しない状態になっていることは間違いない。こういう視点で、その場その場に合わせて「組める」相手を見つけられるか否か。この辺のフットワークの違いが、今まさに問われている。

今年もまだ一ヶ月半を残しているし、昨今の時間の流れの早さからすれば、まだまだ大きな出来事が起る可能性は充分ある。しかし今2002年は、多軸的な価値観が誰の目にも捉えられるものになり、世間で話題にし得るものとなったという点において、歴史的に記憶すべき年であったと言うことができるだろう。これからも、亡霊のように20世紀的価値観が、大きく立ちはだかることも、もちろん多いと考えられる。しかし、舵は確実に21世紀の方へ切られたことは間違いない。


(02/11/22)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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