同じ穴のムジナ






相変わらずテレビも新聞も、拉致被害者関連の記事が絶えることはない。おかげでタマちゃんが話題にならなくなってしまったが、横浜付近には出没しているらしい。もちろん、拉致被害者の味わった苦労は察しきれないものがあるし、被害者家族の心労も語り尽くせないものがある。これについては、個人レベルの感情としてはもちろん、同情の限りを尽くして突くし尽きることはないと思う。前にも述べたコトだが、それは実際そうだと思うし、なんらその感情自体を否定したり、拒否したりするものではない。自然な感情である。

しかし、あらゆる局面でそのような個人的感情が通用するかというと、そうでもない。モノは時と場所によりである。自室に一人でいるときなら、デカい音を立てて放屁に至っても、誰もとがめるものではないし、それはそれで気持ちいいものである。そもそも自室なのに、誰かに気兼ねして我慢したり、バレないようにコソっと放ったり、というのではなんかすっきりしない。しかし、公衆の面前や満員電車の中では、いくらやりたいからと言っても、ところかまわず臭い屁を放つわけにはいかない。それが自己責任と言うものである。あたりかまわず放出する人間は、無責任である。

当然、この問題でも似たようなことがいえる。一個人として、私人としての感情は、最大限尊重する必要もあるが、世の中のすべての事柄が、一個人、私人としての感情だけで解決し得るものではないこともまた確かである。公の利害のためには、一個人、私人としての感情を押し殺す必要もある。ノブリス・オブリジェなどは、その代表的な例である。そして、自分の個人としての価値判断ではなく、公人としての価値判断を優先させるからこそ、自己責任なのだ。公の立場を放棄して、個の立場だけしか考えないのが無責任ということになる。

前にも語ったことなので繰り返しになってしまうが、自分がなんらの義務・責任を果たさずに、権利だけ享受しようと言うのは甘えである。拉致問題で人権をかざして個の感情を正当化している人達は、徴兵され戦場で国のために死ぬことがあったら何というのだろうか。多分、自分達の「人権」だけを主張し、補償だ賠償だと喧しくなるのだろう。そんな無責任な連中の人権を、国は守る必要もないし、尊重する必要もないはずだ。義務・責任と権利はバーターのディールになっている以上、それが常道である。あるヒトが無責任を選んだ以上、そのヒトは無権利になっても仕方ないのだ。

重ねていうが、国が守るのは、国のために権利を制限しても義務を果たせるヒトだけある。だから、貴族制の国においてはフルに権利を認められる「国民」あるいは「自由人」は、ノブリス・オブリジェを果たし得る者だけなのだ。その一方で多くの庶民は、義務もない分、権利もない「無責任」を享受できる。この流れに乗り、欧米諸国では、国民国家になってからも、義務を果たしうる市民に対しては、人権を認め、国民としての権利を保証した。これはあくまでも、たとえば、国の一大事になれば、自ら国のために命を賭けて戦う勇気と気迫を持っているからこそ「国民」たりうる。ということである。

さて、そんな勇気も気迫もないよ、というヒトもいるだろう。思想信条の自由がある。それはそれで構わない。その場合、ただ一つだけ心に念じておくべきは、そこですでに一つの選択をしているし、その選択により起りうる「結果」については、「何が起ろうともそれに甘んじる」という、最低限の責任だけは取らざるを得ない、ということである。どんな無責任でもいいが、これだけはキチンとしてもらわなければ話も噛み合わない。しかし困ったことには、最近のジャーナリズムの論調の多くは、この最低限の要件すら踏み外してしまっている。

北朝鮮の政府を責めるのはもちろん、日本の政府にも、「本当に当人や家族のことを考えているのか。みんなこんなにかわいそうなんだゾ」と、これでもか、これでもかとタタミかける。それも当人や家族の人権を傘にした、個人の感情が原点でありながら、ほとんど反論を許さないトーンである。そこには個人の顔こそ見えるものの、国家としての論理やアイデンティティー、それを元にした国際関係のあり方といった視点はない。それどころか、「人命は何よりも尊い」という論理が拡大され、「人命は国家や国際関係より尊い」というのが、常識であり常道であるかのようである。

ぼくは一部の原理主義者のように、「ジャーナリズムかくあるべし」というビジョンを振りかざして批判するものではない。逆にジャーナリズムとてビジネスである以上、ビジネスモデルが成り立つためには、「ワイドショー」になっても仕方ないと思っている。しかし、ワイドショーにはワイドショーの倫理と論理があるハズだ。それは、正義や正当性ではなく、どちらが面白いかで勝負しようという競争原理である。自分の論理で押すのはいいが、相手の論理を塞いだのでは競争原理ではない。しかし、今のジャーナリズムがやっているのは、エセ正義を傘に着た反論の圧殺である。

つまり、今のジャーナリズムのやっていることは、庶民感情にアピールする「拉致被害者はかわいそう」という感情を最大限に利用した、論理の圧殺である。これにより感情移入により支持・同化してしまうとともに、反論を許さないようなスキームを構築している。これは「洗脳」である。「北」のやっていることと、最近のジャーナリズムのやっていることとどこが違うというのか。「北」の政府も、正義派ぶるジャーナリズムも、その尻馬に乗る政治家も、所詮「洗脳」ということについては、同じ穴のムジナである。そしてこの構図からはからずも浮き彫りになるのは、結局日本人には洗脳が必要だ、ということに他ならないのだ。


(02/11/29)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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