歴史の転換点






2002年もまもなく暮れようとしている。個人的にはいろいろ大変だったけれど、中身は充実していて、いい一年だった。それはさておき、視点を変えると、日本にとってもこの一年は、実は大きな意味のある一年だったような気がする。それは、後から振りかえったとき、「20世紀と21世紀の分水嶺が実はこの年にあった」と語られるような気がして他ならないからだ。もちろんそれは、20世紀的なパラダイムが21世紀的なパラダイムに取って代わったのではない。世の中の対立の構図が、20世紀的なパラダイム内での対立から、20世紀と21世紀の対立として明示的に捉えうるようになった年、という意味である。

たとえば典型的には、「道路公団民営化」をめぐる議論である。予定調和でなく、議論の対立が生まれる。その対立も、旧来のイデオロギーや既得権の対立ではなく、もっと本質的な構造、すなわち「20世紀的な発想」と「21世紀的な発想」の対立から発生している。もっとはっきりいえば、「甘え・無責任・受動的」な匿名の大衆モデルの行動様式と、「自立・自己責任・能動的」な顔のある個人モデルの行動様式の対立である。この対立が、とにかく先のコトは考えず「貰えるものは貰っておく」発想と、自らある程度の犠牲を負担しても「筋を通す」発想となってぶつかったのだ。

このような対立は、いろいろな局面で見て取れる。未だ途上であるものの「金融改革・不良債権処理」の問題然り。企業のガバナンス不在に基づく不祥事然り。外務省に代表される官庁組織の制度疲労然り。こういう状況下でも優れたパフォーマンスを上げた企業がある一方で、この期に及んでマーケットからNOを叩きつけられてもお国にすがり付こうとする企業がひきもきらないこともそうである。そう考えると近い将来、建設的なことはしなかったものの「20世紀的なスキームの破壊者」としては、小泉首相の存在が評価されるのかな、という気もしてしまう。

また、拉致被害者の問題にもその傾向は現れている。もちろんいつも言っているように、被害者やその家族の方々の蒙った辛苦については、いかに慮っても余りあるものであると理解している。この点に関しては、コメントのしようがない。しかしその反面、この問題についての外野の騒ぎ方には、何か非論理的でヒステリックなモノを感じてしまう。マスコミ等での報道の裏には、やはり、行き場のなくなりつつある大衆感情の焦りを見て取ることができるのだ。おいしく、ぬくぬくと甘えられる環境が段々狭まっている。これを直感的に感じ取っているからこそ、大衆は焦っているのだ。

そこで主張していることは、この問題に関しても、結局は政府がナントカしろ、補償と対応を図れと責任を押し付けていることに他ならない。拉致被害者が可哀想だという大合唱の裏には、イデオロギーや人権意識ではなく、責任は「お上」に任せ、自分たちは「お上」から甘い汁だけ享受するという、無責任な大衆意識の発露を見て取らざるを得ない。特にこの問題が、政治色の強いメディアのネタというより、ゴシップに強いワイドショーや女性週刊誌ネタとして取り上げられるコトが多い現実をみると、この感を強くする。

20世紀的な産業社会においては、日本では「甘え・無責任・受動的」な匿名の大衆が人間の規範だった。すべての責任や義務は、組織やお上におっかぶせた上で、自分は甘い利権だけ享受する。このようなメンタリティーは、高度成長と共に顕在化し、常識化した。高度成長と共に育った「団塊の世代」と呼ばれる人たちこそ、まさにこのようなメンタリティーの体現者である。バブル崩壊以降の日本が、旧来の利権や構造をなるべく温存しようと、問題の解決を後ろ倒しにしてきた裏には、ちょうどこの時代は、「団塊の世代」が社会の中心となっていたことも大きい。

その一方で、「自立・自己責任・能動的」な顔のある個人も、日本人の中で確実に増えている。日本発のグローバル企業を支えているのも、GDPに捕捉されなかったり、貢献しない領域で、「好景気」を演出しているのも、こういう21世紀型の日本人である。このような人材は世代を問わずいる。そして、その存在が無視できないくらい大きくなっている。それが今2002年の状況を生んでいるのだ。この人間類型の違いを生み出しているもの。それは、「創る力」の有無と、「自己否定」ができるかどうかという点にある。

あらゆる場面で、「創る力」が問われている。「創る力」とは、無から有を作り出すエネルギー。そして、ゼロから価値を生み出す知恵。これは人間のみに許された所作である。コンピュータやネットワークがいくら発展しようと、ロボットや自動化がいくら進もうと、組織論やシステムがいくら高度化しようと、それを使いこなす人間がいなくては、ゼロはゼロのまま。価値は、そういう仕組みやシステムの側からではなく、人間の「創る」力からのみ生まれる。まさにクリエイティビティーこそ、人間としてのレゾンデートルである。

今までの日本は、高い技術力と生産力を持ち、物質的に「作る」コトにかけては世界をリードしていた。しかし、それゆえ「作る」ことに片寄りすぎていた。だが21世紀は、モノ「作り」ではなく、モノ「創り」でなくては評価されない時代だ。「作る」ことの上手いヒトではなく、「創る」ことの上手いヒトを大事にする社会へ。この価値観の転換についてゆけないヒトが多いことも、今の日本に閉塞感をもたらす原因となっている。今までの価値観や、今までの発想にとらわれていると、創ることにおいても、日本には優れた人々が溢れていることに気付けない。

もう一つ重要なのは、「自己否定」である。成功体験がイノベーションの妨げになるといわれる。NHKの番組「プロジェクトX」の人気が高い。もちろん、番組に描かれた歴史の一コマから、色々なヒントを学び取る視聴者もいる。だが多くの視聴者は、単に過去の栄光のノスタルジアに酔いしれるだけである。この両者を分かつものが、過去のしがらみから抜け出し、新たなスキームを構築できるかどうかという発想の違いである。そしてその原動力となるのが、この自己否定力である。

自己否定力の欠如こそが、今の停滞感を引き起こしている。そしてこの欠如は、組織やシステムでは補えない。一人一人がマインドアップしてはじめて成し遂げられる。だから自己否定力が、ビジネスでも学問でもスポーツでも、あらゆる分野で成功のカギとしてクローズアップされている。裸一貫で新たな世界に飛び込んだ瞬間、過去の自分の蓄積は一掃され、過去の栄光も名誉も否定される。この、リセットボタンを押してようなナチュラル・ハイな感覚が、敢えてリスクを取ることを厭わず、危険な冒険に駆り立てる。

中長期的なスパンで考えても、「甘え・無責任・受動的」な匿名の大衆が完全に絶滅することはないだろう。それどころか、日本人の本質から考えて、ある程度のヴォリュームを持つ集団として今後も存在しつづけるだろう。しかし、もはや彼等が増加することはない。今後も、相対多数のクラスターとして存在しつづけるにしても、マジョリティーたりえない。その一方で、「創る力」を持ち、「自己否定」ができる人間は確実に増えてゆく。彼等は決して群れない分、一つの巨大なクラスターにはなり得ない。しかし全体としては、「自立・自己責任・能動的」な顔のある個人としての共通基盤を持つ人達の方が多くなる。そちらへ向かって世の中が動き出したコトをはっきり実感できる。それが、今年2002年ではなかっただろうか。



(02/12/27)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる