差を知る






最近の日本を憂う論調は、いまや掃いて捨てるほどある。ネガティブなトーンが好きで、建設的な提案より批判・批評が好きという、日本人の性根のせいもあるのだろうが、失われた十年と呼ばれる「長期景気低迷」もあって、批判する対象には事欠かない分、次から次へと飽きることなく湧いてくる。もともと、口先の批判は「甘え・無責任」の隠れ蓑という傾向が強いのだが、こういう批判的な議論の裏には、どうにも「悪平等指向」が見え隠れしてしまう。「悪平等」で「甘え・無責任」に浸っていられた、あの日本はどこへいったのだ。そのノスタルジアがこういう批判的なトーンを生むのだ。

たとえば、よく引き合いに出される問題に「大学生の学力低下」というものがある。最近の大学生には、中学生レベルの国語力、数学力もない連中が結構いる、ということである。それはそれとして事実なのだろう。問題は、その原因を何に求めるかである。ゆとり教育の問題等、初等・中等教育の問題とする論調が教育界には多いが、これもけっこうな見当外れである。悪平等が大好きで、悪平等こそ正しいと信じている教育界の人達だからこういう結論になるのだろうが、正解ははっきりしている。それは、大学進学率が高くなりすぎたことに尽きる。

第二次ベビーブームの団塊Jr.世代も学園から去り、今や希望すれば、大学全入も不可能ではないくらい、定員に余裕がある状況である。昨今は、生徒の激減による大学の経営破綻も問いただされている。こういう状況になって、学力が維持できるはずがない。団塊の世代が受験にさしかかった昭和40年ごろ、大学進学率は10%そこそこであった。それが今では40%である。かつても、中学生レベルの国語力、数学力もない連中は確実に存在した。しかし、連中は大学に進学しようなどとは夢にも思わなかった。中卒、高卒で集団就職したのである。そういう層が大学に入学するようになれば、当然学力は低下する。それだけのことである。

満員電車の中で弁当を喰ったり、化粧をしたりと、最近のマナーの悪さをことさら問題視する論調も同じことである。マナーと縁のないところで暮らしている人は、昔から多かった。しかしそういう人は多くの場合、コミュニティーの中だけの移動でことが足りてしまい、都会の満員電車に乗ることがなかった、ということである。 昔の都会人、特に公共交通機関を利用するような人たちは、それなりにマナーを気にするメンタリティーを持っていた。しかし今はそうでないメンタリティーの人も多く都会に住み、公共交通機関で通学・通勤する生活をしている。要は、それだけのことである。

もし原因を問うなら、昔に比べ都市部の人口は爆発的に増加したということだろう。高度成長前には、圧倒的に農村人口の方が多かったものが、経済成長と共に都会への怒涛のような流入が起った。たとえば総務庁「労働力調査」によると、第1次産業の構成比は,30年には37.6%と最大の規模であったが、40年には23.5%となる一方、第2次産業は24.4%から31.9%へ,第3次産業は38.1%から44.6%へと増大した。 また産業構造の変化とともに、25年には4割弱だった全就業者における雇用者の比率は増加を続け、40年には60.8%まで高まった。こういう状況の中で、それ以前の都会人のマナーを期待するほうがおかしい。

そもそもこれは、違うメンタリティー、違う価値観を引きずっているということである。満員電車で弁当を喰ってもいいと思うヒトと、喰うのは美しくないと思うヒト。これはどっちが正しくて、どっちが間違っているということではない。ましてやどっちが偉いということではない。それを悪平等主義的に、「人はみな同じ」とばかりに、同じ価値観やメンタリティーまで期待してしまうほうがおかしいのだ。本来異なるものを、超大衆社会化した現代日本は、同じモノとして扱わざるを得ないほど、悪平等主義に染まりきっている。問題の本質はここにある。

人間である以上、差はあるし、違いはある。差を大事にし、違いを大事にするからこそ、異なる文化を背負った人間が共生できる。悪平等主義は、この社会のもっとも基本的な部分を破壊してしまう。違いは悪だ。だから、違いは見て見ぬフリをするか、力づくで排除する。しかし、元来違いがある以上、どんなにがんばったところで、その矛盾を埋め尽くすことはできない。だが、いままでの日本がやってきたのは、右肩上がりの高度成長の追い風を利用して、その悪平等を実現しようということなのだ。

幸い、風向きは変った。バブルから十年以上。この期に及んで、高度成長の神風を期待するヒトはアホである。アホはアホなりにやってくれ。その一方で、わかっているヒトは、もうちゃんとわかっているのだ。幻想の平等などありはしないと。才能を持ち、努力をしたヒトだけがその分野で成功できる。そこには、何の抜け穴もマジックもない。やりたくないヒトは勝手にやってくれ。やりたいオレは先に行くぞ。群れから降りたヒトから成功してゆく。今年は、それが現実の結果となって現れる年になるだろう。


(03/01/10)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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