ポスト大衆社会のマーケティングに求められる要件






こと日本においては、一般の常識として、マーケティングといえば暗黙のうちに「マス・マーケティング」を示すと思っているヒトが多いだろう。しかし、いつも言っているように本来のmarketingとは、モノやサービスを売るための方法論すべてであり、当然、マス=「大量生産・大量消費の大衆社会」を前提としないマーケティングも存在する。ここではそのための要件を考えてみたい。基本的にポスト大衆社会を考えるには、多様な個人、多様な個性の存在に基づいた体系であることが必要だ。百人いれば、モチベーションは百様。その違いをベースに置きつつ、その中での共通性やパターン化を図ることで、ボトムアップ的にグルーピングができることがなにより重要である。

そのため、これからのマーケティングでは、結果の分析ではなく、その原因となったモチベーションの分析ができなくてはならない。。これは、結果とモチベーションの同一性が、必ずしも保証されない時代になり、モチベーションそのものを把握できなくては、商品企画も、商品開発もできない状況になっているからである。たとえば、同じ映画を見に来ているヒトでも、本当にその映画を作品として鑑賞したくて来ているヒトもいるし、話題になっているのでデートに誘うのに都合がいいから来ているヒトもいる。この両者を、別の範疇としてカテゴライズできることが求められている。

これは、データマイニングの問題等に顕著に表れている。CRMの技術が進み、顧客データのマイニングのための理論や技術は進んだ。顧客データベースがあれば、過去の行動実態に基づき、それを精緻に分類することは可能だ。しかし、それだけでは何の意味もない。各々の行動様式持つ意味や、その行動が起るモチベーションを分析することは、モデルだけではできないからだ。データマイニングからは、過去の事実はわかっても、顧客の顔見えてこない。マイニングしたデータから顧客の顔を見出すには、そのデータを「現場の知恵」で読みこむことが必要になる。

特にこの問題は、未知の刺激に対する反応の予測を行おうという場合、深刻な問題になる。今や二番煎じ商品を販売していたのでは価格破壊しかなく、一定の利益を確保するには、付加価値性の高い商品開発を行うことが必須である。商品の付加価値の高さを決めるものは、他にないユニークなであるとともに、必需品的要素ではない、エンターテイメント性のある機能や存在感がなくてはならない。一言でいえば、生活者にとって「未知の商品」でなくては、付加価値にならないのだ。既存の方法論では、あくまでも過去の経験の整理しかできないので、こういう刺激に対する反応の予測は不可能である。ここに問題がある。

いままで「マーケティング」と呼ばれていた各メソトロジーにおいては、原因と結果、目的と手法という関係性が極めて曖昧なまま取り扱われていた。これは、結果から、マクロ的、統計的に分析してゆくという方法論を取る以上、不可避な問題である。確かに、過去の事象を整理こそできる。しかし、ここから得られた知見では、ナゼそうなるのかという説明は不可能である。これを達成するには、個々の人間のモチベーションから、ボトムアップ的に分析してゆくことが必要になる。そういう視点に立ってはじめて、原因と結果の整理もできるし、分析も可能になる。

それは、結果をいくらマクロ的に分析しても、原因はつかめないからだ。マクロ的分析においては、あくまでも暗黙の了解事項として、「同じ結果のバックグラウンドには、同じ原因が存在している」という、ある種の画一的決定論がある。マス・マーケティングが限界に達しているのは、まさにこの点である。結果として同じ行動をしていても、そのモチベーションが全く異なる場合に、その「違い」を解き明かすことができないからだ。結果として売れればいい、という問題意識には答えが出せても、売れるものを作りたい、という問題意識には無力である。

そのためには、「なぜ」がわかることがカギとなる。これからのマーケティングの方法論は、特定個人のモチベーションを特徴付ける、サティスファクションのあり方や重み付けを捉えることができることが必要である。このためには、社会学や臨床心理学的な手法も活用し、個人の心の中を読み取るところからスタートし、それをグルーピング的に纏め上げて、全体像を提示するものでなくてはならない。

このような手法を具現化すれば、その適応対象は、旧来のマーケティングを越えて大きく広がる。たとえば、ある特定の女子高生がなぜ援交に走るのか、あるいは走ってもよさそうな別の女子高生がなぜ走らないのか。その違いを分析することが可能になる。また、オウムの信者が、なぜオウムに入信・出家したのか。それは、どうして他の宗教ではなかったのかを説明可能になる。まさに、今求められている、ポスト大衆社会のマーケティングとは、このような問題に対し、一人一人の気持ちのメカニズムに立ち戻って、分析を可能とするものでなくてはならないのだ。



(03/01/31)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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