広くあまねく-公共サービスのウソ-







公共性のあるサービスは、広くあまねく。高度成長期の日本においては、これは金科玉条のごとき正義であった。いわく、高度成長のメリットを余りうけていないところにも、同じような公共サービスが受けられるようにすることが、平等であり、民主主義であると。しかし、その結果としてうまれたものは、旧国鉄のローカル線の破綻であり、道路公団の巨額の不良債権化であり、郵政事業の赤字化である。つまるところ、右肩上がりでゴマかしていたものの、そもそも事業として成り立たないものを、「広くあまねく公共サービス」の美名の下、正当化してきた方便ということなのである。

そもそもビジネスの原理に立つならば、もともとの「不利」があるのであれば、そのサービスにはより大きい対価が払われるべきである。過疎地の人が新幹線を欲しがるのは、それだけのメリットを感じているからである。それなら、過疎地の人は、そのメリットの大きさに応じた対価を支払うべきである。過疎地の人が、たとえば東海道新幹線の5倍の運賃や特急料金を払うというのなら、それで事業が可能になる線区もあるだろう。本来、サービスの対価とはそういうものである。それを払ってはじめて「公平・公正」というものである。

逆に、そこまで払うのならいらない、という人も多いかもしれない。そうだとするなら、そもそも、人の金だと思って甘えている以外の何物でもない。もし、僻地の人に対し、米のメシを食うな、麻以外着るな、とかいう封建時代のような規制をするなら、それは差別だ。広くあまねくというのは、本来、こういう極めて基本的人権に対してのみ成り立つことである。電話が通じるかとか、テレビの電波が届くか、といった付加価値サービスでは、差があって当り前である。

それが普遍的に見るに値する価値を持っているかどうかはさておき、BSデジタル放送やCS放送は、少なくとも受信機材を持っていなくては見る事が出来ない。さらにCS放送は、衛星プラットフォームにしろ、CATVにしろ、サービスプロバイダに何らかの料金を払わなくては見る事が出来ない。しかし、それは別に不公平なわけでも、広くあまねくでないわけでもない。それは、どんな人でも機材を買って金さえ払えば見れるという、「門戸のオープンさ」が担保されているからである。NHKが「広くあまねく」といわれるのは、法律で受信料支払を義務化しているからであって、サービスの本質ではない。

さらに趣味の話になると、そこでは全く「公平さ」を問われることはない。たとえば鉄道模型の中古ショップで、銀座天賞堂の四階に「エバーグリーンショップ」というのがある。ここの取扱量は中古模型市場の中では圧倒的であり、ほぼ、中古市場のプライスリーダーとなっている。特にブラスモデルについては、一年通せば出てこない機種はないといわれるほど流通量が多い。東京に住んで都心部のオフィスにいる人なら、仕事にもよるが、毎日足繁く通って出物を漁ることも可能である。事実、そういう「常連さん」も多い。

しかし東京圏でも、たとえば横浜に住んで川崎の工場に通っている人はそうは行かない。行けても週一とかなるだろう。そこから先は、関西でも離島僻地でも同じである。通えれば有利、通えなければ不利。住んでいるところや仕事場によって、中古モデルコレクションには、決定的な有利不利がある。しかし、それをとやかく言う人はいない。また、地方に住んでいても、通信販売で大量に中古の売り買いを行うことで店には行かないものの「常連さん」になり、店員から色々情報を得ることで、地の利のデメリットを解消している人もいる。要は、本人の努力次第なのだ。

5倍メリットがあるものに5倍の対価を出さず、1倍のメリットの対価と同じで済まそうという発想こそ、甘え・無責任である。不便を便利にするにはコストがかかる。広くあまねく公共サービスという発想は、その適正なコストを払わずに、結果だけ貰おうという発想である。電話代も、郵便や宅配便の配送費も、そのコストに見合ったものにすべきである。山間僻地ではコストがかかるというのであれば、その分高くなくてはおかしい。不便なところのコストを、便利なところの人に附加しようというのは、逆差別である。

適正な対価を払わずに便益だけ享受する人を、「盗人」という。公共サービスは、広くあまねく全国一律でなくてはいけない、と主張する人たちは、そういう意味では盗人である。自立自己責任の考えかたに基づけば、サービスを享受したいなら、便益を受ける側がそれなりの努力をすべきである。そこをウヤムヤにしておいて、自分が「弱者」ぶることによって、悪平等な再配分を求めるというのは、まさに「甘え・無責任のアカ」そのものである。こんな連中のためにコスト負担させられるのではたまらない。日本社会に根深く潜む、この「悪平等」の病巣に、もっと多くの人が気付くべきだ。




(03/02/14)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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