20世紀というバブル






このところ、いくつかの地域で、商工会議所の幹部など、地域の経済活動の中心的役割を担っているヒトとあって話をする機会があった。そこで感じたことは、「地域」は地元に根ざした経済構造を持たなければ成り立ち得ないことは、何よりも各地域の経済界自体が気付いていること。しして、元気のある地域は、それなりに、地域に根ざした循環的は「閉じた系」を築き、それを基盤とした経済活動をベースにモノを考えようという気分になっているということである。

当たり前といえば、余りに当り前のことなのだが、これが当り前でなかったのが、近代の日本である。ストレートに言えば、あらゆる地域が「分不相応」な経済規模を目指し、その逆ザヤを、中央からの援助で埋めようとしていた。これは、明かに「悪平等」である。援助分は誰かが負担しなくてはならない。負担させられるほうはたまらない。しかし、右肩上がりの高度成長が、その矛盾を覆い隠し、一見、誰も損しないように見せかけていただけである。

そこでできあがった巨大化した「地域経済」こそ、ウドの大木である。シビアに言えば、筋力だけは隆々とした脳死患者である。人工心肺がついているから生きているように見えるだけ。実は、その大きさの体では、自分自身の力で維持することもママならない。よく、収入以上にクレジットカードでブランド商品などを購入しまくり、カード破産してしまうヒトがいるが、あれと同じである。中央からの補助の拡大は、与信枠の拡大のようなもので、収入の増加ではない。そういう意味では、今までの産業規模が粉飾決済のようなものだ。

ここで大事になるのは、現状をどう認識するかである。今の経済構造や経済規模について、「そこにある以上は、続けるべき」と考えるか、「あってはいけないものがある」と考えるかだ。現状を分析する中で、自律的に成り立ちうる経済構造と、中央依存の経済構造を分けて捉えられる地域ならば、話は簡単だ。公共事業目当ての土建業など、悪平等の再配分の分け前でしか成り立たない企業こそ、「粛清」が必要だが、それ以外の「堅実」な事業については、それなりに自立が可能である。

そういう「経済のリストラクチャリング」を成し遂げれば、経済規模こそ小さくなるかもしれないが、多くのヒトにとって「幸せに住める地域」でありつづけるコトができるだろう。これができるかどうかは、その地域が、江戸時代の「クニ」として自立していたかどうかにかかっている。それなりに経済的バックグラウンドと地域文化を持ち、「クニ」としてのアイデンティティーを持つ地域なら、中央依存の贅肉の下に、「昔とった杵柄」の筋骨がのこっているからだ。

その一方で、国内植民地的に、公共事業等の「お上からの資金」を前提として成り立ってきた地域は、かなりシビアな問題がある。これからも地域として存在するコトを求めるなら、一からモデルを構築しなおすべき。それも、中央依存の経済構造ではなく、まさに「江戸時代以前のクニ」としての構造やアイデンティティーを、新たに構築しなくてはならない。それは間違いなく、経済の規模や質といった面で、今まで培ってきたものに比べれば、相当にレベルダウンを余儀なくされるだろう。

最近、甘やかされて育った「ボンボン」が、社会に出て始めて「責任」というものを負わされて、大ショックを受ける例が極めて多い。運悪く、ストレス耐性が弱いヒトだったりすると、ここでメンタルヘルスになってしまうという。今の状況はこれと似ている。過去において、それなりに「責任感」を養えた、すなわち地域としての自律的循環を経験したことのある地域なら、昨今の状況も力強く乗りきれる。その一方で、「責任を知らない子供たち」、すなわち経済が自立した経験のない地域は、メンタルヘルスになってしまうということである。

そう見て行くと、大切なことがわかる。日本の歴史の中では、明治以来のたかだか百数十年程度の「近代」こそ、うたかたの夢、バブルである。人間の人生は歴史より短い。だから、今生きている人々は、このバブルしか知らない。しかし、それは歴史に本質ではないのだ。金に明かした悪平等の社会は、右肩上がりという幻想によってのみ支えられる。右肩上がりが永遠に続くわけがない。それができるなら、いわゆる「マルチ商法」が成り立ってしまう。

成長神話とは、いわば社会全体が「マルチ商法」に踊らされていたようなものである。一度マルチ商法に手を出したとしても、「これはダメだ」と気付いて、手を引けるなら傷は浅くて済む。もちろん損失はあるだろうが、それ以上広がることはない。損した分は、「授業料」としてあきらめれば、やりなおしは効く。危険なのは、幻想から抜けきれず、「夢よ再び」とばかり、さらにのめり込む輩である。実際、マルチ商法で身を持ち崩すのは、こういう「依存症」体質のヒトばかりである。

まさに、今の日本は瀬戸際である。20世紀の歴史、近代の日本は、一時の栄光に浸りきっていただけのバブルなのだ。ここでバブル依存症になり、夢を追い求めて身を持ち崩すのか。それとも、歴史に学び、バブルはバブルとして受け入れ、本来の自分を見つめなおすのか。この選択がまさに問われている。そして、自立を目指すヒトは、キチンとそれを受け入れつつあると見て良いだろう。その一方で、依存症のヒトは気付かないまま取り残される。この変化は、今日本の中で、確実に起っているのだ。


(03/03/21)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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