フロンティアのない世界を生きる






20世紀の常識であった、右肩上がりの産業社会。前世紀末からの数年で、そのスキームがもはや通用しなくなっていることは、誰の眼にも明らかになるだけの状況証拠が揃ったといえるだろう。しかし、未だにその事実に気付かない人、気付こうとしない人がいることも確かである。その反面「好況を知らない子供たち」も、次々と社会人になってくる時代にもなっている。この「体温差」が、時代状況の混迷を一層深めていることも事実だ。今の状況を、誰がどういう視点から、どういう風にみているか。これをもう一度確認することも、縁ないことではないだろう。

振り返って考えてみると、日本においては、本当の意味の産業社会的な高度成長のスキームは、70年代のドルショック、オイルショックを経ることにより壁に突き当たり、終焉していた。80年代には、すでに今に通じるような、安定成長を前提とした経営パラダイムを取る企業も出現していた。シーズ指向からニーズ指向へ。プロダクトインからマーケットインへ。それがどれだけ理解され、実行に移されたかはさておき、安定成長に対応したマーケティング重視の戦略が企業経営に必須だという主張は、この時代の一つの流行でもあった。

しかし、世の中には自らの努力で新しいパラダイムに対応しようと考える人より、なるべく本質的な解決を後ろ倒しにし、オイシイ思いをしつづけたいと考える人の方が多い。そして、日本は「民主主義」の数の論理が罷り通る国なのである。新たな時代に対応すべきという問題意識こそ提示されたものの、そうしたい人は少ない。従って、人工心肺と人工栄養による高度成長スキームの延命措置が取られる。その結果、エネルギーの過剰摂取状態となった結果が、いわゆるバブル経済ということになる。それが何をもたらしたかは、誰もがご存知の通りである。

そういう意味では、実は「失われた20年」なのだ。80年代から、社会・経済は指針を失ってダッチロールを繰り返してきた。それは、官僚の利権構造が増大し、政府の財政赤字がそれに比して増大しだしたのは、80年代からであったコトを見ても解る。しかし、まがりなりにも80年代は、それ以前の「蓄積」が通用したと共に、すでに高度成長スキームと決別していた人や企業にとっては、その間に次のパラダイムへの移行準備を整えることができた。90年代に入ってから、少数派ではあるものの「勝ち組」と呼ばれる企業が登場し得たのは、ひとえにこの賜物であろう。

では、高度成長期と安定成長期とではどこが違うのだろうか。「甘え・無責任」で、追い風に乗っていれば良かった高度成長期。「自立・自己責任」で、絶えず自助努力を続けなくてはいけない安定成長期。捉え方はいろいろあるが、構造的にみるならば、「フロンティア」の有無ということではないだろうか。早い者勝ちで手に入るフロンティアがあるのなら、自分の領分を守りつつ発展的再生を繰り返す苦労をしなくても、そこに進出する方がよほど楽である。そこで問題になるのは、フロンティアといえども無人の荒野ではない点、そして、フロンティアそのものが無限ではない点である。

こう見て行くと、フロンティアを前提にした高度成長というのは、侵略により手に入れた植民地を前提にした帝国主義経営とうりふたつであることが良くわかる。支配者からは見えなくなっているが、植民地にも歴然と先住民はおり、その社会はあった。同様に、フロンティアと思われたマーケットにも、カタチは違うものの、すでに何らかの市場があり、それなりに機能していた。高度成長の前提になった市場は、産業社会の到来と共に新たに創造されたものではなく、それまでプリミティブな形かもしれないが、何らかのカタチで満たされていたニーズを、既存スキームから奪ったものにすぎない。

そもそも、人類の歴史においては、フロンティアと称して既存の構造を侵略することで、社会や経済を成り立たせてきた時代の方が少ない。原始時代の狩猟生活など、全てがフロンティアだったのではないかという人がいるかもしれないが、それは違う。狩猟生活では、そもそも「領分」があるワケではない。獲物がいるところは、始めからすべて活動エリアなのだ。だからこそ、全体として生活できる人数のキャパシティーも極めて少ない。帝国主義的経営も、たとえば大英帝国が工業産物である「綿布」の市場を求めて、インド、中国と侵略したように、産業社会の構造と密接な関係がある。

21世紀の社会は、再びフロンティアがないことを前提にした枠組になる。そこでは、無人と称して、先人の存在を無視し、傍若無人な行動をすることは不可能だ。しかし、既存の市場をめぐって、既存のプレーヤー同士が、フェアに戦う可能性は充分に残されている。これこそが、これからの発展の法則である。まさに競争原理の意味はここにあったのだ。フロンティアへの侵略ではなく、既存フィールドでの、ルールあるフェアな戦い。自助努力の対象は、まさにこのプレーヤー同士の競争、戦いに、いかに勝てる戦略を構築し、いかに勝てる実力を蓄えるかということのなのである。


(03/03/28)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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