悪平等の「不経済」学







いままで何度も述べてきたことだが、「悪平等」は、社会の活力を奪い低迷させることはあっても、それが前向きな社会をもたらし、活性化した明るい未来をもたらすものとはなり得ない。それは、直感的に考えても、それなりのセンスを持ったヒトならすぐ解るだろう。未来への視力が多少弱いヒトでも、かつての鉄のカーテンの向こう側の歴史でも振りかえれば、誰でも気付くだろう。本当は、この日本の現状が何より「悪平等」のデメリットを実証している。しかし、そのまっただ中にいても、いやいるからこそこの事実に気付いていないヒトが多いのかもしれない。

ということで、今回はなぜ悪平等が悪いことで、社会を衰退させるものなのか、多少理論的に考えてみたいと思う。2002年のノーベル賞は、日本では小柴氏、田中氏のダブル受賞が脚光を浴びたが、経済学賞はプリンストン大学のD. カーネマン教授が受賞した。受賞の対象となったのはプロスペクト理論と呼ばれる経済理論である。これは今までの「経済学」とは決定的に違う構造を持っている。それはどういう点か。今までの経済学のほとんどは、完全に市場が機能し、全ての情報が認知可能な中で、完全に合理的判断を取る主体の行動を前提として構築されていた。

これはこれで真空で摩擦のない世界でのニュートン物理学のようなものである。どういう仕組みになっているのかという「理論構造」を解き明かすのには重要であり、それなりに意味がある。しかし、あくまでも理論を解明するためのものであり、現実のソリューションをもたらすメソトロジーとはなりにくい。まったくならない、というワケではないだろうが、これで解けるほど「原理主義的」な問題は、現実社会の課題としてはそうは起きない、ということである。だからこそ、経済学は実用に耐えない、とか、経済学者で理論を実践して儲けたヤツはいない、とかいわれる由縁である。

これに対し、プロスペクト理論は、今までの経済学では例外として除外されていた場合にこそことの本質があるとして、個々の人間の心理行動に着目し、認知心理学の成果に基づき、経済活動のメカニズムを分析したものである。いわば、摩擦を考慮に入れた力学なら、クルマのエンジンやブレーキの効率も計算できるように、これなら、より現実の状況に近い分析や予測が可能になる。その効果が最も期待できる、株式や債券といった金融市場の動向を分析しようとした理論が、「行動ファイナンス理論」である。

ちょっと前置きが長くなったが、行動ファイナンス理論が拠って立ついくつかの理論的基盤の一つに、人間のリスクに対する感じ方がある。それは「人間は数学的期待値通りには行動せず、同じ額の利益と損失であっても、損失の方をより大きく感じる」ということであり、「損失回避」と呼ばれている。プロスペクト理論では、元来「実験」のできない社会全体をベースとした経済学とは異なり、個々の人間の行動については、心理学的に実験し、実証することが可能になる。この「損失回避」の現象もまた、何種類もの心理実験の結果実証されている。

結果としての平等を基本とした「悪平等」な社会と、機会としての平等を基本とした「公正」な社会とどこが違うのか。それは「悪平等」が「所得の再配分による平準化」を目指しているコトからも解るように、あくまでも「配分」の問題である。これは何も所得の問題に限らない。たとえば「ゆとり教育」の問題も、教育は最低ラインに合わせるだけでいいという「悪平等主義者」と、解らない子に無理して教え込む必要はなく、理解度の高い子にだけ高度の教育を施せば良いという「公正主義者」の対立である。これも結局は、「限られたリソースをどう配分するか」という問題に帰することができる。

ということは、これらの対立は、数学的な期待値が同じ現象であっても、それに対応した人間の意識や行動がどうかわるのか、という問題として捉えることが可能ということになる。それはとりもなおさず、「損失回避」の視点で分析が可能ということである。「悪平等モデル」とは、社会全体としての果実を全員に等しく平均分配したモデルである。これに対し「公正モデル」とは、極端にいえば、社会全体としての果実を勝者が総取りし、それ以外のモノには配分されないモデルである。この両者の行動に対する影響を比較してみればいい。

この場合ポイントとなるのは、公正モデルでは配分にあずかれない人たちである。この層にとっては、たとえば「悪平等モデル」では「+1」の配分が必ず得られるのに対し、「公正モデル」では「+1」の配分はほとんど得られないことになる。もし人間が合理的判断に基づいて行動するのなら、+1が得られるメリットも、+1が得られないデメリットも、同じスケールで判断される。しかし、人間行動はそうではない。「損失回避」現象に基づけば、+1が得られるメリットよりも、+1が得られないデメリットの方を、より深刻に判断することになる。

もし人間が合理的行動を取るのなら、悪平等でもそれなりにモチベーションを喚起することができる。しかし、人間はそうではない。だからこそ、ポジティブなエサで釣るよりも、ネガティブな地獄を見せた方がモチベーションが湧くのだ。まさにイス取りゲームと同じ。サドンデスな危機が迫れば迫るほど、人間はヤル気を出す。その一方で安住できる地位が保証されれば、必ず停滞・腐敗する。社会を活性化し、そのポテンシャルをフルに引き出すためには、「悪平等モデル」ではなく、「公正モデル」でなくてはいけない理由がここにある。

しかし、直感でわからないヒト(悪平等主義者は大体そう)のためを思って、理屈で書いたけど、なんかもったいまわってキレが悪いな。なんか、らしくない(笑)。


(03/04/04)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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