生命保険はいらない







イラク情勢をはじめとする、世界情勢の先行き不安をうけて、株価低迷が一層進んでいる。そういえば、前から「3月危機」とかいわれていた「不安」は何気に乗り切ってしまったようだが、またぞろ経済メディアは、イエロージャーナリズムのごとくスキャンダラスに不安を煽ることで、ことさら自分の存在を示そうとしている。そんな中で、4月に入ってからは、生命保険業界の危機が問いただされることが多くなった。たしかに、日本の生命保険業界は極めて問題がある。しかし、それは単に株価の低迷だけに帰される問題ではない。

確かに、株価の低迷によって問題の所在が明確化したことは間違いないが、その原因はもっと深いところにある。生命保険業界の問題は、今に始まったことではない。いろいろ問題の多い日本の金融業界の中でも、最も体質的な弱さがある。いい返せば、安定した構造の中で、一番ぬるま湯に浸っていた業界である。ぼくが学生から社会人になった、70年代から80年代にかかる頃の就職状況を思い起こすと、生命保険業界を選んだ理由というのは、「仕事が楽」「安定していて待遇もオイシイ」というのがほとんどであった。これはいいかえれば、その頃から「甘い体質」だったことを示している。

しかし、生命保険の問題はそういう「日本の金融業」としての問題だけではない。それ以前に、そもそも構造的問題がある。果たして、生命保険というものが必要なのか。答えは「No」である。生命保険などなくても、基本的にはなにも困らない。事実ぼく自身、そんなものには一切加入していないし、それで問題が起るとも思っていない。社会システムとしては、生命保険は必要不可欠なインフラではない。そもそもここにこそ、生命保険事業の根源的な問題がある。それでは、何で生命保険が必要とされ、ビジネスとして成立するのだろうか。まず、歴史的な背景から考えてみよう。

生命保険の歴史を調べてみると、それが意外と新しいことに気付く。損害保険は、交易の歴史とともにそのシステムを築き上げてきたことからも解るように、そのルーツは相当に古い時代にさかのぼる。冒険に近かった遠方との交易では、事業に投資すること時代、極めてリスキーでギャンブルのようなものであった。従ってその源初形態としては、保険というより、成功の確率が低い以上、失敗する方に賭ける(=投資する)ことも可能であり、その両者の間である種のブックメイキングを行ったものと見ることができる。これは今でもロイズの引き受けに、その痕跡を見ることができる。

しかし生命保険は、そんな深い歴史はない。お金を積みたてておき、死んだ誰かが死んだときに用立てるというシステムは、中世の職業ギルドや宗教教団内でみられた。しかし、これは仲間内の「香典講」のようなものであり、保険ではない。生命保険が、現在のような不特定多数を前提にした統計的システムとしてできあがったのは、1700年代のイギリスといわれている。これはもちろん、その前提となる数学の発展もさることながら、そのニーズ自体が近代社会の曙と不可分の関係にあることを示している。生命保険とは、近代産業社会の生活設計、生活構造と密接に関連しているのだ。

生命保険とは、ある人が死んでキャッシュフローが止まる可能性が起ったとき、あたかも生きていたときと同じように現金を得る道を作るものである。ということは、キャッシュフローが「自転車操業」になっているからこそ必要なもの、ということになる。基本的に、キャッシュフローが赤字ベースで推移している場合。すなわち、それが顕在化しているか潜在的かはさておき、生涯収支のバランスがマイナス、つまり「借金」から入っているからこそ、必要とされる。そういう場合、全体としての収支バランスを、将来のキャッシュフローまで前提にしてとっているため、何らかの補填が必要になる。

すなわち、生命保険が必要かどうかというのは、人生設計の構造的問題ということになる。近代産業社会の大衆の生活が、将来の収入まで担保に入れた収支設計をするからこそ、生命保険が必要になる。しかし、そういう生活設計は、近代産業社会特有の給与生活者が、過去のキャッシュフロー以上に消費性向を高めてはじめて生まれてくるものである。将来の収入を期待せず、もし死んでしまったとしてもその補填を必要としていなければ、生命保険などそもそも必要ない。それを確かめるために、近代以前の生活様式では、どういうメンタリティーだったのかを見てみよう。

最も西欧近代から遠いものとして、江戸時代の日本の、伝統的な生活設計を考えてみる。ます資産家はどうだったろうか。日本のイエ・システムにおいては、イエ=資産を人格化したものであった。血縁=イエではないのがその特徴となっている。資産自体が自己目的的に、末代まで自律的に維持管理するシステムである。そこでは、資産の管理に不適な後継ぎは廃嫡され、あっさり優秀な養子に取って代わられてしまう。資産の維持のためには、血のつながりなど意味はない。そうである以上、当主が亡くなっても、何ら問題はない。それに代る新しい適任者を据えればいいだけである。当然、生命保険的なものは必要ない。

一方、庶民はどうだったろうか。当時の庶民のメンタリティーを表したコトバが、「宵越しの金は持たない」である。基本的に明日の収入のことなど考えていない。今日入った金は、今日使ってしまう。いたって刹那的に見えるが、これはこれで合理性がある。つまり、今日の金を今日使うということは、キャッシュフローは自転車操業ではあるが、基本的に入った金だけを使う「黒字ベース」であることがわかる。だから、将来の収入を前提にした借入は行わない。ということは、「死んでしまえばそれまで」で、精神的には悲しいかもしれないが、金の面で苦労を残すわけではない。これまた生命保険的なものは必要ない。

このように生命保険自体が、「将来の収入まで担保にして、生涯の収支バランスを考える」生活設計を前提としたモノであることがわかる。借入を背負っているから、生命保険が必要になる。それは自分が今持っているもの、本来持つべきもの以上に、モノを持とうとするから必要になる。近代産業社会の大衆の持つバブル指向、これを実現するためにこそ生命保険は生まれ、必要とされてきた。ということは、近代産業社会的メンタリティー自体が崩れ出せば、生命保険というビジネスモデル自体が成り立たないことになる。それはなにより、生命保険がマスの加盟を前提に、確率システムとして成立しているからである。

多くの大衆が、分不相応のバブリーな生活を実現しようとしていた近代。そういう近代だからこそ、生命保険は成り立った。所詮は、成りあがった大衆の、ユガんだ欲望のつじつま合わせのための道具でしかない。人々が皆、「分をわきまえた」生活をしていれば、必要がないものである。右肩上がりとは違う、安定的な経済均衡が前提となる21世紀においては、「分をわきまえた生活」こともとめられる。今起りつつある生命保険の危機。それは、近代産業社会が単に歴史上の記述となってしまうのと軌を一にして、そのビジネス自体も歴史上の存在にならんとしている点である。


(03/04/11)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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