20世紀という社会実験







20世紀の産業社会というパラダイムを語るとき、それが当面乗り越えるべき「過去の遺物」である状況においては、どうしても否定的、ネガティブな面を強調せざるを得ない。しかし、それは何も20世紀を全否定し、そこで得られた成果や知見すらも否定してしまおうというものではない。現在の人間社会があくまでも20世紀の延長として連続的に存在している以上、それが正像なのか逆像なのかはさておき、「20世紀の成果」を前提にしてしかありえない。それはまた、20世紀を通して得られた成果や知見については、利用できるものは積極的に利用すべきだ、ということにもつながる。

20世紀を振りかえってみたとき、そこに通底していた価値観の一つとして、「貧困」からどう抜け出すか、というモノがある。19世紀においては、当時の先進国といえども、国内には「貧困」状況が溢れていた。カール・マルクスが社会主義という哲学を思いついたのも、19世紀の産業革命後のイギリスの労働者の「貧困」状況を目の当たりにし、それをどうすれば克服できるか、というポジティブな未来像を提示しようとしたゆえである。このように、近代においては「貧困」こそが諸悪の根源であり、これを克服できれば、人類の抱えている問題は解決できるという考えかたが主流であった。

近代初期においては、その解決は侵略による植民地の獲得と、そこからの収奪で埋め合わそうとばかり、帝国主義大国による世界分割が進んだ。この結果、確かに一部では「一旗上げる」ことにより成金になった層も生まれたが、所詮はゼロサムゲームである。根本的に先進国の「貧困」を解決するものとはなり得なかった。また、北米新大陸の植民地などは、ヨーロッパの過剰人口を移民により吸収する役割も担ったが、それとて、全ての過剰人口を吸収し、旧大陸における「貧困」を一掃するまでの機能を果たしたわけではない。以上が19世紀までの状況である。

これだけ「貧困」問題が重要視された裏には、「貧困」層の放置が、やがて社会秩序や政治構造に対し悪影響を与え、それを揺るがしかねない危険性があるという認識があっただろう。事実、歴史をひも解けば、近代社会の確立と共に社会運動が激化したことがわかる。当然当時の人たちが、その先に「ゆゆしき事態」を想定せざるを得なかったことも納得できる。しかし、本国の経済構造をそのままにしておいたのでは、それは解決できない。ここで登場してきたのが、「大衆社会」を実現しようという動きである。

悪いのは全て「貧困」の結果である。したがって、「貧困」そのものを解消してしまえば、それに伴う数々の矛盾も解消する。それには、「右肩上がりの高度成長」を実現し、直接的な所得増加を実現すればいい。これができれば、人々はみな「新・中産層」となり、豊かで幸せな暮らしを送れるユートピアが実現する。これこそ理想的な「大衆社会」である。そこでは、平等や民主主義も実現可能である。こと「大衆社会」のユートピアを理想像としたという点においては、社会主義も自由主義も同じ穴のムジナである。そして、各々の方法で、その実現に邁進したのが20世紀であった。

まずアメリカが1920年代に萌芽的に大衆社会化を実現したコトをきっかけに、第二次世界大戦やその後の冷戦期など、紆余曲折はあったものの、世界は工業化と大衆社会化を実現する方向に向かい出した。その結果、20世紀の半ばには、西欧をはじめ先進国と呼ばれる諸国では、「貧困」問題の解消が実現した。日本においても、いわゆる高度成長期を通して、「超・大衆社会化」が実現し、悪平等なまでに世界でも最も均質化が進んだ国となった。さらに、20世紀末に向かい、NIES諸国などと呼ばれた諸国がめざましい経済成長を遂げ、貧困を解消した大衆社会に突入したことも記憶に新しい。

その中でも、「大衆社会化」の優等生で、最も「貧困」問題の絶滅を実現したのは、他ならぬ日本である。昭和20年代の日本では、敗戦による経済の混乱も含め、「貧困」という問題には少なからぬリアリティーがあった。それから半世紀を経た世紀末の日本では、もはや「貧困」は死語と化した。もちろん収入の多寡はあるし、ヒトによって生活レベルの差があることも事実だ。しかし、社会問題となるような「貧困」層は存在しない。それどころか、「ぷー」でもそれなりに「文化的」な生活を送れる国なのだ。この成果は、それ自体、一つの巨大な社会実験と考えることができる。

果たして、社会問題は全て解消されたのだろうか。人々は豊かで幸せな暮らしを送れているのだろうか。20世紀初頭に唱えられたパラダイムを前提にすれば、そうでなくてはいけないはずだ。しかし、結果は日本人なら誰もが感じている通り、決して心の豊さが得られたわけではなく、社会問題も新たな課題が発生しているのが事実だ。結局、20世紀の日本が、その歴史を以て証明したのは、「悪いのは「貧困」ではなく、もっと深い構造的な問題だ」ということである。社会実験としての最大の成果はこれであろう。

結局、「貧困」が解消され、豊かになろうと、人間の本性は変らないのだ。あさましい人間が豊かになれば、あさましさが増長されるだけである。逆に、ゆかしい人間は、貧しくとも心清かった。「貧困」の中には、清貧な人徳者もいる。「成金」の中には、腹黒い独善家もいる。それは、持って生まれたミーム、刷り込みなのだ。「貧困」は解消されても、持って生まれた人間性は解消し得ない。これが、20世紀の日本の歴史が後世に示す最大の教訓だ。そして、日本人は、自分自身がその当事者であるからこそ、21世紀の社会を築くために、この教訓を生かさなくてはいけない。


(03/04/18)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる