核家族の幻想







またぞろ、少子化・高齢化についての議論が喧しくなっている。まず高齢化だが、すでに何度も論じたように、基本的には何ら問題ではない。日本は21世紀の情報社会、知的生産社会に突入している。ここでは、価値を生み出すものは、筋肉労働ではなく、頭脳労働である。頭脳労働であれば、年齢というのは基本的に問題にならない。単純な記憶力そのものは、まだ記憶した情報量の少ない若い頃の方が高い。しかし、それを使って付加価値を生み出す作業となると、若さが強さとはならない。ノウハウや経験を蓄積したからこそ語れる知恵というものも多い。特に高い見地からの総合的判断となると、相当な経験値を積んでいる必要がある。

そういう意味では、年を取る=経験を積むことは、決してマイナスではなく、それがより高い付加価値につながることも多いのだ。問題は、無から価値を生み出す「知的能力」の有無である。高齢化の問題ではなく、日本人の「知的付加価値生産能力」の問題、すなわち、知恵を生み出せない老人が多い、ということなら、これは確かに問題だ。しかし、首から下の能力しかない老人をどうするか、というのは「高齢化」の問題ではない。どちらかというと、これはかつての産業社会の生み出した廃棄物の一種、公害問題の一種として捉えるべきであろう。

一方、少子化も何ら問題は無い。生めよ増やせよは、人間の腕力が工場生産の生産量を決めていた「前期産業社会」の発想だ。21世紀は、「数は力なり」ではなく「質は力なり」の世の中である。全体として生み出す付加価値は、知的生産が可能なヒトの質によるのであり、単純に数だけ多くても全体として生み出す価値は変らないし、逆に一人当りの分け前は減ってしまうことになる。人数は少なくても、質の高い方が強いのだ。競争原理が働き、質の高い人間をそれなりに評価できるようになれば、全体の人数は減った方がいい。そういう意味では少子化は大歓迎である。

オマケに、現状の日本の人口はあまりにも多い。日本の国土を前提に考えるなら、過去の歴史的推移も鑑みて判断するに、6000万人から8000万人ぐらいが適当である。このくらいなら、有機体としてのバランスが取れるはずである。現状では人数が多いから、食糧問題やエネルギー問題が発生する。食料自給率の問題を取り上げるヒトがいるが、その理由は、人間が多すぎるからである。いっそ、内戦でも起って3000万人ぐらい死んでくれた方が、日本の将来にとっては余程いい。しかし、そこまでしなくても、自然に減ってくれるというのだから、これは神の見えざる手、こんないいことはない。

さて、少子化に関連して、「晩婚化・非婚化」を問題視するヒトがいる。しかし、これこそ少子ならぬ、笑止千万である。そもそも20世紀産業社会の「核家族を基本とした皆婚化」という現象自体が、人類の歴史上特異なものであったコトを見落としている。そして、今起っている「晩婚化・非婚化」は、産業社会の崩壊と共に、この虚構が崩れているだけのことである。そもそも核家族を前提にするなら、パートナー選びは、自由市場で競争原理が働かなくてはおかしい。いわゆる「モテない」ヒトまで、おコボレにあずかれる状況は、真に競争原理が働いていなかったということになる。

日本の家族の歴史を見ても、皆婚というのが「常識」ではないことに気付く。江戸時代の大家族制度の時代では、次男、三男以下は、基本的には結婚のチャンスが無かった。あるのは、長男にもしものコトがあり、そのスペアとして出番が廻ってきた時か、女系の家請われて、あるいは、その才能を見込まれて跡取として「婿入り」する時しかない。そのチャンスがない場合は、大家族の中で、メンバーの一人として一生を送るしかない。それでも社会は連錦と続き、繁栄できるのである。「モテない」ヤツがパートナーを見つけられないからといって、根本的に問題があるわけではない。

逆に、競争原理が働かないほうが問題である。猿の集団の社会行動の例を引くまでもなく、動物においてさえ、オスとメスの間では競争原理が働いている。甲斐性のあるオス、魅力のあるオスはカップリングできるが、甲斐性のないオス、魅力のないオスはカップリングできない。これが自然の法則である。そして、そこで甲斐性のないオスが淘汰されることにより、進化するのである生活のためとか、経済的視点とかで、甲斐性のない男性、魅力のない男性も伴侶が得られる状況の方がおかしい。こういうことをやっていると、人類は退化して滅びてしまうだろう。

そういう意味では、これからのあり方として、「多妻一夫型」を提案したい。つまり、甲斐性のある男性を、多くの女性がシェアするのである。マメで甲斐性もあり、生活力も経済力もある男性なら、多くの女性を幸せにすることが可能であろう。それなりに自己を確立し、生活力もある女性ならば、甲斐性のない男を四六時中抱えておくよりも、いい男をきっちりシェアリングした方が、得られる幸福度は高くなるだろう。それに「一夫多妻」では、男尊女卑の可能性があるが、「多妻一夫」は、明らかに女尊男卑である。近代社会のジェンダー観からも自由でいられる。

では、あぶれたオス達はどうなるのか。これはこれで重要なマーケットとなる。すなわち、彼らは一生風俗産業等のヘビーユーザーとなるわけだから、今まで以上に夜の街は活性化する。刹那的に生きることができるのだから、その勢いでギャンブル産業等も活気付くだろう。こそこそでなく、おおっぴらに遊べるのだから、この経済効果は大きい。あとは、工業生産偏重のGDPのカウントを改め、風俗市場やギャンブル市場の経済への貢献度を高く評価する指標を作り、それで景気を判断するようにすればいい。全てのパラダイムが新しくてこそ、21世紀だ。社会も文化も、陳腐化した産業社会の倫理と論理にコダわる必要などないのだから。


(03/04/25)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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