団塊のブランド






団塊の世代を称して、「『Gパン』の中にシャツのスソを入れている人達((c)大串昇平)」という表現がある。蓋しこの世代の本質を言い当てていて名言である。本来、カジュアルかどうかというのは、着ている服そのものに依存する問題ではない。もちろん、どういう服を着るかという「ハード面」の選択も、カジュアル性を規定する要素の一つではあるが、実はそれ以上にソフト面というか、着こなし方が重要である。スーツだってカジュアルに着こなすことはできるし、スポーツシャツでも、相手にラフな感じを与えない着こなしは充分可能だ。

しかし、彼ら団塊の世代は、ハード面の記号性しかアタマにない。まあ、それ以前の人たちに比べれば、ハード面での差異性がわかっているという違いはあるのだが、それ以上の考えはめぐらない。単にスーツはフォーマル、ジーンズはカジュアル、と即物的に捉えることになる。従って「ジーンズを着ればたちまちカジュアル」ということになり、発想がそこで止まってしまう。どうやって「カジュアルに着こなすか」ということを、彼らに理解してもらうことは不可能である。実は、これが団塊世代のブランド観の基本になっている。まさにハード的視点、水戸黄門の葵の紋所のようなモノとして、ブランドを捉えているのである。

さて、ホンダが「スポーティー」という「伝説」がある。少なくともホンダユーザーはそういうブランド観を持っているらしい。そして「スポーティーだから若者に人気がある」と思っている人がいる。一体何年前の価値観を引きずっているのだろう。今の若者は、そもそもクルマに興味など無いし、それ以上に、スポーツイメージをポジティブに評価していない。一部のカーマニアはさておき、若者とはそういうものである。それどころか、我々40代のオジさんからしても、決してホンダのイメージはスポーティーということはない。

ホンダというブランドが、グローバル企業としてのブランドイメージの高さを持っているコトは間違いない。しかしそれは、米国市場での高いシェアやイメージに支えられているものである。海外のクルママーケットでの評価、海外の投資家からの評価は、あくまでもそこに根ざしている。決して「スポーティー」だから評価が高いわけではない。確かに、二輪以来モータースポーツに力を入れていることは確かだが、だからと言って製品がスポーティーと言うことにはならない。

ぼくらがティーンエージャーの頃は、スポーティーと言えば箱スカだった。そもそも、市販者ベースのレーシングカーがレースで大活躍していたのだから、そのイメージは強烈だ。そして、その後のストリートレーサーでのL型エンジンのスープアップ合戦も含め、日産がそれなりにスポーティーと言うのならわかる。また70年代後半になって実際にクルマを選ぶ段になると、ラインナップにツインカム仕様をそろえたトヨタもそれなりにスポーティーであった。70年代末から80年代にかけてなら、今度はマツダがロータリーエンジンでスポーティーイメージを高めた。

それに対し、圧倒的独占市場の二輪はさておき、ホンダのクルマは決してスポーティーではなかった。それが実態である。その一方でホンダを以て「スポーティー」と称していたのは、自動車評論家と呼ばれる人達だけである。自動車評論家には二輪から入った「ホンダファン」が多く、彼らが「こうあって欲しい」と願ったイメージが、彼等の活躍する場である「カージャーナリズム」のコンセンサスとなり、一人歩きをしていたということになる。なぜこうなってしまうのか。それは、自動車評論家と呼ばれる人達には、圧倒的に団塊の世代が多く、団塊的なブランド観から抜け出せないからだ。

それは、過去のホンダのヒット車をキチンと見てみれば良くわかる。ホンダのヒット車というのは、基本的に、それまでのクルマのパターンを打ち破った、「新しい形態の実用車」という特徴がある。これを素直に見ていれば、ホンダというブランドの持つ客観的な意味性はすぐわかるだろう。しかし、「ホンダ=スポーティー」と、願望も含め、ブランドを先入観でしか見られない人にとっては、この程度のことも見えなくなってしまうということである。では、実際にホンダの4輪のヒット作を振りかえってみよう。

まずその嚆矢は、1967年の軽自動車N360である。ミニ以来のトゥーボックススタイルを軽に持ち込み、大人4人が乗れるクルマとなった。次は、1971年のシビックである。これも同様、大衆車クラスでトゥーボックススタイルを実現し、広いユーティリティースペースを実現した。以下、1976年の初代アコード、1981年のアコードセダン、1994年のオデッセイ、2001年のフィットと、それまでの「クラス」の常識を打ち壊す実用性を持った新しいクルマのカタチを提案しては、大ヒットを生み出したのだ。さて、こう並べてみて気がつくことがないだろうか。

そう、ホンダのヒット作は、まさに団塊の世代のライフステージとシンクロしているのだ。団塊のトップランナーの1947年生まれで考えると、社会に出て数年たちやっとクルマが買えるようになった20歳の時にN360(団塊世代の大学進学率は1割ちょっとである)。そして、新婚時のシビック。子供が幼児、小学生で、アコード、アコードセダン。で、生活費が重くなる30代後半のにはヒットがなく、パラサイト・シングル化した子供たちも兼用でクルマを使い出すとオデッセイ。最後のオマケは、子供もやっと独立したら、リストラで生活が厳しくなったところで、フィットのヒットと言うのが泣けてくる(笑)。

それだけではない。なんといっても、ホンダが最初の二輪製品であるモペットA型を売り出したのが、まさに団塊の世代が生まれた1947年と言うのだから、こりゃ出来過ぎである。まさに、ホンダこそ、団塊のための団塊のブランド。団塊的ブランド観の体現者なのだ。「『Gパン』の中にシャツのスソを入れてカジュアルと思う」と同じ文脈で、「ホンダのクルマに乗ってスポーティーと思う」のである。こうなりゃ、死なばもろとも。どこまでも団塊と心中してもらいたいものだ。となると、次に出てくるヒット商品は、老夫婦になった団塊世代をターゲットに、シニア向けの2人乗りクーペというところだろうか。それはそれで大いに期待したものである。


(03/05/09)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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