数の幻想







個人情報保護法案がいくつかの重要法案と並び、国会の論争ならぬ「駆引」の焦点となっている関係で、またぞろマスコミ・言論の自由に関する論議が喧しくなっている。基本的に日本では、大隈重信が大日本憲法制定時にいみじくも看破したように、法律は条文より運用である。ということで、法案そのものの議論をしても始まらない。たとえば、贈収賄等政治家がらみの事件があったとする。しかしそれが、ワイドショーや女性週刊誌まで巻き込んだ「国民的話題」になるのか、単に政治面のベタ記事に毛が生えた程度のもので終わってしまうのかは、政治家自信の持つタレントバリューの問題である。

たとえば政治家でも、タレントバリューを持っている人は、この事実をキチンを理解しているし、メディアを上手く使って自分のパブリシティーに活用している。しかし、バリューのないヒトほど、この違いがわからず、マスコミ・マスメディアに過剰な期待を持っているようだ。結局、メディアに出さえすれば、数を味方につけられると思っているようだが、そんなことはない。大衆好みのルック・アンド・フィールを持っている人にとっては、それを強力に大衆に売り込むチャンスが与えられるだけである。

アメリカの政治とメディアを語る上で欠かせない事件に、60年代初頭の「ケネディー・ニクソンテレビ討論」というのがある。これも、成功したケネディーの方に視点を置き、メディアの力で大衆を味方につけた、と語る人が多いが、そんなことはない。なんせ「討論」なのである。露出チャンスということでは、ケネディーも、ニクソンも同じだ。違うのは、二人のタレント・バリューである。ケネディーはタレント性に溢れ、大衆にとって魅力的。ニクソンはタレント性がなく、大衆にアピールしない。差をもたらしたのは、メディアの力ではなく、二人のタレント性である。

このようにマスメディア、もしくはマスコミというのは、あくまでも「大衆の支持」を前提としてはじめて成り立つものである。自分が主体的に意見を持ち、発表しさえすれば良い「ジャーナリズム」とは、全く異なる機能である。こういうWebでも、「ジャーナリズム」にはなれるかもしれないし、実際、そういう機能を持っているWebもある。この文章自体、そうかもしれない。しかしマスメディアは、「マス」という言葉がつくことからもわかるように、あくまでも「大衆」による「大衆」のためのエンターテイメントであり、「大衆」に媚を売らなくては、ビジネスとして成立しない。マスメディアには「自分の意見」などあり得ず、ただ「大衆」の代弁者となるのみである。

たとえば、関東地区をベースに考えると、VHFの地上波テレビだけでも、NHK2波、民放5波の7チャンネルある。基本的に同時に7番組が流れていることになる。ゴールデンタイムのセット・イン・ユース(総視聴率)前提にすると、どれも10%前後の視聴率を取れるはずである。しかし、現実を見ると、その中で10%以上の視聴率を取るのは2つか3つしかなく、あとは一ケタ台。企画がコケて途中打ち切りになるのがオチだ。このことからもわかるように、インフラや電波といったメディアのハードを持っていても、大衆に支持されなければビジネスとして成り立たないし、影響力も持ち得ないことになる。

たとえば、最近大ヒットしたドラマの「グッドラック」について考えてみよう。あの番組が30%以上の視聴率を獲得し、最近ではまれなヒットになった。もちろん、ドラマ作品としての「作り」の良さも大きいのだが、そもそもそのベースとして、キムタクをはじめとする出演者の人気が高さ、パイロットやキャビンアテンダントといったエアライン関係に関する大衆的な興味の高さがあったことを忘れてはならない。同じ系列の同じ枠でオンエアしても、コケてしまった番組は死屍類類、数知れずである。ドラマ放映後、ANAの就職人気度ランキングが急上昇したが、これも「番組の力」というよりは、そもそも潜在的に存在していた人気に、番組が火をつけたと見るべきである。

このように、マスメディアの持つパワーというのは、傍からみるほどには万能ではない。パワーが生まれるのは、ある種の「タレント性」と大衆の求めているモノが合致した場合だけである。そして、そもそもそういう「タレント性」を持ち合わせている人間は、圧倒的に少数である。だからこそ、タレントという職業があり、限られた人だけがスターたりうるのである。そう考えれば、マスメディアに「露出されてしまった」場合、それがプラスに働く人よりも、マイナスに働く人の方がよほど多い。それでもメディアに対して過剰な期待を持つ人が絶えないのは、数を味方につけようとしたいからに他ならない。

しかし、良く考えてみると、数を味方につけようとすること自体、甘えなのである。数だよりというのは、みんながどうだ、社会がどうだ、というエクスキューズを求めることである。社会がどうだこうだ、と社会のせいにするのは、それは責任を実態のない「世の中」に押しつけて、無責任に甘えてしまうコトに他ならない。大事なのは、社会がどうあっても、世の中がどうあっても、「自分がどうするか」である。自分が決断し、行動する上では、数も世の中も関係ない。いるのは、自分の意志だけである。背中を押してもらったり、誰かのお墨付きを貰わなくてはなにも出来ヤツは、臆病者である。

自由主義経済のベースには、プロテスタント的倫理観がある。これは親鸞上人の「他力本願」の考えかたにも見られるように、キリスト教に限るものではなく、今、近代社会が成立している国や地域では、共通のベースといえる。そこでは、自分のために努力することが、結局は社会のために貢献することになる。自分自身が、自立・自己責任でキチンとすればそれでいいのであって、それをしないで世の中を論じるのは欺瞞だし、それをしないで他人のコトを気遣うのは偽善である。抜け駆けしてもいいから、まず自分が勝つこと。自分の持つリソースは、まず自分のために使うべきだ。それが、めぐりめぐって、最後には世の中も良くなることに結びつくのだ。


(03/05/16)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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