「個の時代」の真の意味







かつて、「知は知識なり」という考えが通用していた時代があった。そのような時代においては、大衆の対極に、オピニオン・リーダーや有識者といった存在が規定され、いわゆる「論壇」を形成していた。彼らは、まるで他人事のように、国家や大企業といった組織の批判や、社会批判をすれば良かった。それで彼らの存在感があった。そういう時代だったのだ。しかし、時代が代ってもこういう発想はあとをたたない。未だにそこから抜けきってない人たちは多い。特に、自分が「良識」の代表だと思っている人たちほど、その傾向が強い。

そもそも社会、組織に何かを求めても始まらない。基本的に、知恵の時代においては、人間の集団は当事者たり得ないからだ。それは言うまでもなく、知恵の時代の付加価値のカギである「クリエイティビティー」は、あくまでも一人一人の人間の中から出てくるものだからである。クリエイティビティーは、個人に依存し、集団から生まれることはない。組織が発揮しているクリエイティビティーのルーツは、その構成員個人の中に帰されるべきものであり、「組織」という実体の無いものが生み出したものではないからだ。昨今、特許や著作権をめぐって、企業と、それを生み出した社員個人とが争う案件が多くなっていることもそれを示している。

同様に、組織は責任を取り得ない。これは、野中郁次郎先生の名著「失敗の本質」を引くまでもなく、日本の組織の特徴である。そもそも実体としての責任を取り得ない(大日本帝国憲法の「神聖にして侵すべからず」という条文は、本来こういう意味である)天皇陛下の名の元に、全ての責任を丸投げし、自分は勝手きままに傲慢の限りを尽くす。これは、戦後の企業や官僚組織にも受け継がれ、元来責任を取り得ない「組織」に無理やり責任を押し付けることで、責任そのものを曖昧にし、誰も責任を取らずに済む無責任状態を作り出してきた。これこそ、「甘え・無責任」大国である日本の「お家芸」である。

このように、組織に問題や責任を帰することはできない。同様に、組織に何か前向きな牽引力や提案力を期待することもできない。それはまさに、「甘え・無責任」の産物である。では、「自立・自己責任」な対応とはどういうものか。それは、「他人や組織にモノを言って何かの行動を期待するなら、その前に自分が率先してやればいいだけ」ということである。大事なのは、自分という個人がやるかやらないかである。言うか言わないかは本質ではない。しいていうなら、「やる人」なら発言権もあるし、発言の説得力もあるということである。

まさに、これからの時代で問われているのは、「やる個人」と「やらない個人」という対立軸である。この軸においては、「言うだけでやらないヒト」は「何も言わないヒト」と同値である。価値は「やること」にあるのだ。ということは、「やる個人」が集まった集団なら、それは意味のある組織になる。これからの時代においては、組織が意味がないのではない。一人では実行不可能なタスクに向かって、「やる個人」同士が力を合わせる必要がある場合も多い。問題なのは、「やらない個人」が何人集まっても、意味も無いし、力もないということ。それは、多くの場合「無責任のつじつま合わせ」に過ぎないからだ。これからの組織論はこうでなくてはいけない。

産業社会の時代においては、大量生産・大量消費に基づく、スケールメリットがもてはやされた。だから、文字通り「数が力」になり、数が独自のアイデンティティーとなった。組織論も、それに基づいて組みたてられた。しかし、もはやそういう時代ではない。だからこそ、国がどうのこうの、社会がどうのこうの、と第三者的に論じることは、もはや意味を持ち得ない。一人一人が集団への帰属意識をもってはじめて組織になるのであり、国や社会がある前に、自分という個人は存在している。ニワトリとタマゴではなく、因果関係はハッキリしている。組織とか社会とか、単なる「烏合の衆」である限り、当事者性は無いし、論じる意味もない。

自分がどうしたいのか。そのために自分がどうするのか。これからの時代においては、まず語るべきことはこれである。組織や国家から、いわば「統計的手法」のように、トップダウンでモノを考えていくのではなく、一人一人の人間のあり方からボトムアップで組織や社会を考えてゆく。今求められているのは、こういう視点である。ということは、そこで考えられる組織や社会の中には、主体的存在でない「その他大勢」は入っていない。「やらない個人」も空間的には存在するかもしれないが、それはただ「ある」だけ。いわば道端の石コロと同じである。これなら、無視してかかっても良いわけだ。

自分が変れば、社会もいつか変る。自分が変らないで、社会が変るわけがない。ましてや、社会に「変ってくれる」ことを期待するのはあまりに無責任である。「個の時代」とは、一人一人の個性が重要になるという意味ではない。社会があって、その中に埋没して匿名の個人があるという、「大衆社会」のスキームが崩壊した。それに代って、「自立・自己責任」で行動する個人がまず存在し、それが寄り集まって、組織や集団を作ってゆくのが、これからの時代の規範である。まず、個人を確立し、個人としての存在感を持つ。そういうヒトが集まってはじめて組織や社会を構成できるのだ。



(03/05/23)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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