幸せになるために







その人にとっての「幸せ」とは何だろうか。ココロの豊かさが求められている時代と良く言われる。モノの豊かさが飽和し、ココロの豊かさを求めようとしつつも、それが何かを見つけることができずにさまよっている人々。いわゆる「失われた十年」を語るとき、常に語られる常套句でもある。しかし、ココロの豊かさとは、求めて手にはいるものなのだろうか。そうではない。モノの豊かさとココロの豊かさとの間には、明かに構造的断絶がある。「幸せ」を手に入れるには、この価値観のパラダイムシフトを成し遂げなくてはならない。

そのためには、「金で埋められること」と、「金で埋められないこと」の間に何があるかを知ることが必要である。金があればモノは買える。たとえば自分が一流のドライヴィング・テクニックがあろうとなかろうと、金にモノを言わせれば、超高性能のレーシングカーを入手することは可能である。しかし、だからといって、誰よりも早く走れるようになるワケではない。それどころか、返って道具のせいにできない分、自分の実力差はいやが上にもハッキリしてくる。もちろん、潜在的なテクニックがあれば、より良い道具に出会うことで、その才能が開花することもある。しかし多くの場合、「金で埋められること」を埋めてしまえば、今度は「金で埋められないこと」がクローズアップされるだけである。

ということは、「幸せ」を手に入れられるかどうかは、本当の自分を知ること、自分らしさを知ることができているかどうかにかかっているといえる。潜在的な可能性も含めて、自分の才能の可能性と限界をわきまえているならば、伸ばすところを伸ばすとともに、ムダな努力を省くことができる。これにより、自分が現世で到達しうる最高の可能性を現実化すること。実は、ココロの豊かさとはこれである。そのためには、自分を知ること、自分の分をわきまえること、自分の可能性に対し最大限の努力をすること。この三点セットがカギとなる。

しかし、人間というのは、ともすると隣の芝生が青く見え、その青さにクラクラと惹かれてしまうものである。できもしない能力、ありもしない可能性に対しても、それができるヒトを目前にすると、「なら私も」と思い上がってしまう。実は今の日本人の多くにとって、「幸せ」を手に入れる上で最大のネックになっているのは、このように他人を気にしすぎる点である。しかし、他人との差異を気にし、差を埋めようとする。この発想にとらわれている限り、幸せは永遠に手に入らない。自分は自分なのであり、その可能性も到達点も、自分だけのものである。決して他人との相対的関係で決まるものではない。まず、これを理解しなくてはならない。

個々人の潜在的な才能を引き出し、伸ばしてゆくためには、月並みではあるが「教育システム」の役割も重要である。しかし、それは俗に言われるように、教育で才能を伸ばして行くという意味ではない。それは悪平等派の、偉大なる勘違いである。彼らはともすると、教育に過剰な期待を持ちがちである。もともと教育関係者には、「個人の才能差」を否定する傾向が強いことも、その傾向を強めている。それは個人の才能差が絶対的なものとるすると、教育の関与できる余地が小さいことになり、自分たちの存在感を否定することにつながる以上、仕方ないかもしれない。

しかし、才能のない人材に教育を施すことは、種を蒔かずに、水をやり、肥料をやることと同じである。それでもどこからか種が飛んできて、なんか思わぬ収穫がある可能性もゼロではないが、その確率はあまりに低いし、それを期待するのが効率が悪すぎる。もちろん、挨拶の仕方や50音、九九といった「基礎基本」を共通のインフラ整備として教える初等教育には意味があると思う。だがそこから先の教育は、費用対効果を考えれば、教育される側の能力をキチンと見て、潜在的な才能が高く、教育の効果が上がる相手にのみ授けるべきである。

自分の持っている才能を見極めることは、決して簡単ではない。いや、これが自分でできるなら、それだけでひとかどの人物である。そういう意味では、知識や経験を授けるといういままでの教育に代って求められるプロセスは、その人材が持っている才能を見抜き、確実に育てて意味のある能力がなになのかの選別ということになる。もっとも、人間は自分以上の能力を持った人間に出会ったとき、その人間の「能力がスゴい」ことはわかっても、それを客観的・定量的に評価できるわけではない。そのためには、評価する側の能力が、評価される側の能力より高くなくては意味がない。

不幸なことに、実際の教育を行う現場の教師や教育学者といった教育界においても、教育システムの運営を行う中央・地方の教育行政関連の官界においても、お世辞にも「能力の高い」ヒトが多いとは言えない。「デモ・シカ」先生というのは、すでに高度成長期から言われていた言葉だが、優秀な人材がチャンスの多い民間企業ヘの就職を第一に考えるようになると共に、教育界を希望する人間は、「競争社会に耐えられない」タイプや、「生活の安定と楽さを第一に考える」タイプが中心となっていた。そういうヒトを前提に教育を考える限り、本来、教育の場に求められる機能や役割を果たすことを期待することはできない。

幸せは手に入る。それは「高望み」をヤメたときに。そう考えてゆけば、現状の閉塞感も、実は「気の持ちよう」であることがわかる。無意味なチキンレースはヤメてしまったほうがいい。オリる勇気は必要だが、オリてしまえば、無用な緊張からも、苦労からも自由になれる。高度成長の体験が摺り込まれ、そこから脱せないでいるから、悶々とした日々が繰り返されるだけだ。かえって、人生投げ出している若者の方が、よほど自分の可能性を見極め、達観しているだろうか。年功社会にぶる下がることで、自分ができもしない責任を負わせられるより、一生フリーターでいられるほうが、余程幸せで自由である。この奥義がわからない限り、21世紀の幸せは手に入らない。


(03/05/30)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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