学べないこと






今や、あらゆる場面で「デフレ・スパイラルからの脱出」が語られている。しかし、そんな簡単な話ではない。それはこのデフレが、日本という国の近代の軌跡がもたらした、宿命的デフレだからだ。そもそも近代のニッポンは、付加価値を創れない国、創らないでもやって行けた国だった。「いいモノを安く」しか成長戦略を持たない。従って、オリジナリティーのないモノまね商品を、いかに安く作るかに終始した。その結果、「コピー大国」と昔からいわれてきたではないか。そう考えれば、付加価値を生み出せないのは、日本全体としての構造的問題であり、今に始まったことではない。

もちろん、日本企業にもグローバルな「勝ち組」はあるし、それらの企業では、世界に通用する付加価値をキチンと生み出している。しかし、それは相対的に少数であり、企業数にしても、雇用にしても、そうでない企業のほうが多いところが問題なのだ。日本では長らく、「マーケティング」とは、すでにあるプロダクトを前提にした、単なる「コミュニケーション・プランニング」のことでしかなかった。マーケット・ドリブンで商品戦略と立てるという、本来の欧米的意味での「marketing」を指向し、実践してきた企業が少ないことを、それが如実に表している。

これは、組織やヒトという面から見れば、「誰でも、どのポジションでもいい」ということになる。特別なセンスやノウハウは求められない。その結果、日本人の会社員では、業務についてはそれなりの経験を積み、それに基づくノウハウを蓄積することがあっても、「経営」については皆目土地勘のないヒトが多いということになった。そして、そういう人材が、単に「年功制度」ということだけで、経営者となる。その結果、財務や商法など、会社経営に必要な基本用語すら知らない幹部が生まれる。それどことか、そういう用語に抵抗がある人さえ多い。

司令官ではなく、兵卒としてのスキルしかない。名選手、名将ならずではないが、射撃の名手で百発百中だからといって、部隊を率い、戦闘そのものに勝つためのノウハウが得られるわけではない。こういうヒトが経営を任されると、当然、自分が判断できる戦術論だけでモノを考えざるを得ない。経営戦略は議論を棚上げされ、前例の踏襲か、「気合い」の精神論で済まされてしまう。その一方で、経営判断が求められるようになると、今度はまさにそのコンプレックスの裏返しで、そういう用語や手法がわかればいい、とばかりにMBA出身者を理由なく重用するようになる。

欧米の企業は、もっと社員が職能別になっている。たとえばセールス担当は、セールスに長けていればそれだけで評価され、その中でのキャリアパスを経てゆく。本人が自発的にキャリアアップをはからない限り、途中から、管理職になり、経営判断が求められるということはない。少なくとも戦前においては、日本の企業でも職能別の区分はハッキリしていた。ホワイトカラーとは、幹部候補生としての少数の大卒エリートのことであり、彼らは、最初から経営者としてのキャリアを積んでいた。それが、戦後の「悪しき平等主義」により、「下に合わせる」ことになってしまったのだ。

その結果、MBAの資格と経営者としてのコンピタンスについても、妙な誤解が生じている。少なくとも、企業の中で経営判断をする以上は、財務データをはじめとする経営指標を読める人間は必要だし、経営効率などの分析ができる人間も必要である。しかし、だからといって、それが経営そのものというワケではない。あくまでもそれらは、経営判断をするための「材料」の整備である。経営判断そのものとは次元が違う。したがって、「材料」を整備する人間は、居さえすればいいということである。

実際、そういう機能はアウトソーシング可能である。欧米において、経営コンサルタントが果たしている役割は、この経営判断の「材料」の整備のアウトソーサーである。経営データ整備、経営分析のプロ、職人として存在している。もともと高度な分析等になればなるほど、専門性が必要とされる一方、専門性が高まれば高まるほど、社員としての汎用性は減ってしまう。そういう意味では、抱えるコストが高くつく人材ということになる。それならば、経済合理性に基づいて、外部のプロを使うというのは、当然の成り行きであろう。

経営者たりうるかどうかは、そういう知識の問題ではない。決断ができるかできないかである。経営指標を分析するのではなく、それを元に判断し、進むべき方向を示せるかどうかというリーダーシップである。当然リーダーシップの精神の涵養と、MBAの勉強とは違う。リーダーシップは、育った環境に依存する。家庭、個人レベルでガバナンスを発揮できない人は、企業のような組織で発揮できるワケがない。土台無理である。禁煙、ダイエットといった、個人としてのガバナンス能力が経営者に求められるのは、それなりに理由のあることなのだ。「器が違う」ヒトでなくては、トップになれない。日本が活性化するには、この「常識」が理解されるようになることが、なにより必要なのだ。


(03/06/06)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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