遺伝の法則





そもそも遺伝は、確率論の問題である。どうも日本人には「確率論的発想」の苦手なヒトが多いようで、その分、誤解している向きが多い。「遺伝的に」という事象は、一人一人の特定の人間に対して成り立つことではなく、ある程度多数の集団を前提に、その中での傾向を見てゆくことによってはじめて「発見」されることである。個々人についての各論は多様だが、統計的に意味のある「大きさ」を持った集団になると傾向値が出てくるのが遺伝なのだ。しかし、それを特定個人の問題としてとらえてしまったのでは、大間違いである。

たとえば、血液型の遺伝について考えてみよう。AO型の父と、BO型の母を両親に持つ子供は、A型(AO)、B型(BO)、O型、AB型、どの型も生まれてくる可能性がある(実はぼくの母方の祖父・祖母がこの組み合わせなのだが)。だからといって、4人兄弟の子供がきれいにA、B、O、ABとなるワケではない。個別に見てゆけば、全部A型の4人兄弟もいれば、O型とB型が2人づつという4人兄弟もいる。各論という面では、何でもありである(もちろん、各々の組合せの存在確率は違うが、これはここでは置いておく)。しかし、AO型の父と、BO型の母を両親に持つ4人兄弟100組を抽出するなら、その子供を延べて数えれば、A型、B型、O型、AB型が、ほぼ100人づつになるハズである。これが遺伝の考えかたである。

そういう意味では、才能は遺伝する。つまり、ある種の才能について考えた場合、同種の才能を持つ両親から生まれた子供の集団の方が、そうでない集団より、その才能を持つ確率に優位な差があるということである。スポーツでは相撲の井筒兄弟や、若貴兄弟などが典型だろう。また、音楽では宇多田ヒカルなんてクローン度の高い例もある。いずれにしろ、親から受け継いだ才能が実力となり、各々の世界で実績を残している。もちろん、これは個別の個人の話ではない。個々人について考えるなら、才能のある親から「無能なバカ息子」が生まれることも多い。これは、世の中でも良く見られることである。

一方で、「二世政治家」というのも増えている。小泉首相をはじめ、各党の党首クラスに二世が目立つということは、ある種の政治的リーダーシップの才能も遺伝するのだろう。外交官や高級官僚でも二世は多い。もちろん、問題の多い「二世政治家」もかなりいるなど、一概にはいえないところもあることは確かだ。しかし、これは政治家個人の問題である。皮肉っぽく言えば、もともと人間的に問題のある政治家も多いので、子供がそこを受け継いでしまえば、問題のある悪徳政治家も再生産されてしまう、と見れないこともない。

さて最近、教育の階層化がいわれている。高学歴層の子供ほど、高学歴になる確率が高く、低学歴層の子供は、低学歴で終わる確率が高いという、実際の統計から導きされた傾向である。お役所は、悪平等主義で「階層」の存在を許さないため、これを以て「親の所得差による、教育機会の差」だと称している。しかし、この問題の本質がそんなことでないコトは、日本人誰でもホンネで知っている。そう、「アタマ」は遺伝するのである。実社会で生活していれば、好むと好まざるとに関わらず、これが「事実」であると思い知らされる機会は多い。それを「鷺を烏と言い黒める」官僚というのは、余程能天気な人種なのだろうか。

そういう意味では、この現象は、前にも述べたように、戦後50年で世の中の流動性が高まり、能力さえあればチャンスがつかめるようになった結果、高い能力を持つ可能性の高い階層と、その可能性が低い階層に分化してしまったということである。人間の「能力」とか言うと、全人格的な観念論になるし、倫理論や、そもそも人間は平等という人権論を持ち出すヒトも出てくるかもしれない。そこで、「学歴」ということから、受験という「技術」の良し悪しで考えてみよう。これは、人間の価値でもなんでもない。単に入学試験でいかに手際良く点数を稼ぐかというテクニック論である。これなら問題ないだろう。

両親ともに偏差値が60以上の大学を卒業しているヒトの子供の大学生の集団である「集団A」と、両親ともに偏差値が40以下の大学を卒業しているヒトの子供の大学生の集団である「集団B」を作る。それぞれ200〜300あれば統計的に意味がある結果が出ると思う。集団Aでも、集団Bでも、それぞれ個別に見てゆけば、色々な偏差値を持つ大学の出身者がいるはずである。その大学名のバラエティーそのものはどちらもそう変らないだろう。集団Aにも低い偏差値の大学の学生はいるし、集団Bにも高い偏差値の大学の学生はいる。

その意味では、個々人の能力は、バラバラであり、機会の平等は担保されていることがわかるだろう。しかし、集団全体での偏差値の平均、すなわちそれぞれ一人一人の通う大学の偏差値を全員分足し合わせ、人数で割った値を取れば、明かに統計的に優位な差があるはずである。うそだと思うなら、やってみるが良い。というより、受験ビジネスに携わっている人々は、毎日、この社会実験をやっているようなものである。あるいは、自分の廻りを見てみれば、三代続けて慶応出身とか、三代続けて東大出身とかいうヒトがごろごろいるし、東大生の親など、ほとんど有名大学出身者であることは、ほとんど常識である。

本人はさほどの学歴がなくてフリーター的なことをやっていても、その実、とんでもなく切れるヤツがいる。当人に聞いてみると、さもありなん。その親は、高学歴で社会的ステータスも高いヒトだったりすることは良くある。結局、人間一人一人の原点は、遺伝的に持ってうまれたものと、そして準遺伝的に摺り込まれたミームである。この業からは逃れることはできない。その宿命を受け入れて、その定めに従って生きることが、人間として最も大事なことなのだ。

だからこそ、折角生まれ持った才能を持ちながら、性別や人種、出自、宗教といった表面的な要因で差別され、その才能を活かすチャンスを与えられない、というのは言語道断である。しかし、その反対に悪平等的に、類まれな能力を持っていても、それを評価されることなく、能力を持たないモノと同じ扱いしか受けないというのも差別である。これもまた、決して許してはならない。チャンスと評価の平等こそが大切なのである。チャンスの平等における差別には敏感でも、評価の平等における差別には鈍感なヒトが多い。これはゆゆしき問題である。

もちろん、いつも言っているように、「能力=才能×努力」である。いかに持って生まれた才能があっても、それを磨く努力をしなくては無意味である。大事なのは、何を持って生まれたかではなく、自分が持ってうまれたものに気付き、それをどこまで磨くかにある。「才能がないのに、努力だけ人一倍」というのも、いかにも虚しい話だが、せっかく才能を持っているのに、努力しないというのは、ほとんど犯罪である。自分に与えられた可能性を受け入れず、ムダにしてしまうというのは、人類としての損失である。宗教的な意味での「罪」である。だから、個人の間に「差」を認めないというのは、この可能性を殺す「罪」そのものなのだ。


(03/06/13)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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