タブーという思考停止






最近、「ネオコン」なるコトバがはやりである。もともとはブッシュ政権の戦争指向の理論的支柱ということだったのだろうが、いろんなモノに「ネオコン」というレッテルが張られるようになった。それならこちとら、王政復古のコンコンである。こっちからすれば、「ネオコン」なんて、根性無しのアカの一種だ。保守のホの字でもないのだが、まあ、それはそれとして、それに引っ張られて、日本の核武装についての議論も語られるようになった。しかし、それは実は「核武装についての議論」の是非についての議論なのだが、議論が出来るだけマトモになったといえる。いいか悪いかを論理的な思考無しで、感情論でキメてしまうというのは、余りに無謀である。

そもそも議論のプロセスとしては、あらゆる可能性を考える必要がある。これは、理論的にモノを考えるための常道である。全ての可能性を比較し、もっとも意味のある結論を引き出す。その思考実験の過程で、全てのプロセスをつぶして行く。あらゆる可能性を考え、その各々についてキチンと評価するからこそ、その結論の価値や意味が高くなる。もちろん、これは答えが必ず一つしかない、ということではない。結論は同じであっても、同じ結論を出すのに取りうる選択肢がいくつかあるとすれば、そこへ至る途中で自分の好みや主観といった主張をいれればいいからだ。

特に、自分が勝手にどうするか決めるのではなく、相手とのインタラクションにおいて戦略を考えなくてはならない場合において、この考えかたは重要である。相手が自分と同様、思い込みだけで行動するのなら、これはまあ、それぞれが勝手に行動するのと同じ構造なので、何とかなるかもしれない。しかし、一般的に相手がある議論においては、相手の取りうる可能性は最も幅広く考えるのが定石である。一方的に自分の主義やベキ論だけで話を進めるのは、客観的な分析でも何でもなく、単なる妄想である。かつての旧軍隊が、精神論だけで兵を進め、敵の状況や戦略の客観的な分析、評価ができず負けてしまったのと同じ轍である。

日本の核武装論も、本来なら、核武装が必要になる状況があるのかないのか。ないとすれば、どういう戦略を取れば、なしで済ませられるのか。というステップで論を進めなくては、全く意味がない。核武装をすべきでないと思うなら、なんですべきでないのか、論理的に説明しなくてはいけない。そのロジックは、「核武装のメリットとデメリットを比べたとき、メリットよりデメリットの方が多い」となるか、「かかるコストが大きく逸失利益が過大になる」となるかであろう。多分、議論をすれば、その結論は「する意味がない」となるのは間違いない。

そのワリに、核武装反対論者の方が、核武装に関する議論を忌避し、議論そのものを否定する傾向が強い。とにかく、彼らはマトモな議論ができず、感情論でしかモノがいえない。これは、「護憲」論者、「平和」論者、「福祉」論者に共通する。「非戦論」に立ち、平和憲法を日本が持つことが重要だと考えるなら、そのためには現行の「日本国憲法」は不充分である。なんせ、解釈論で軍隊が持ててしまうからだ。だったら、憲法を改正して、もっと厳格な非戦主義を貫き、一切の軍事力を持てないような憲法を持つべきだと主張しなくてはおかしい。こういうアカの連中はアタマが悪いので、マトモな議論や理論的発想ができないということなのだろうか。

もちろんこれは、政治的立場、イデオロギー的立場を問わない。どういう立場を主張するのであれ、自分の主義主張が正当性のあるものであることを示すためには、客観的で論理的な判断が不可欠である。これまたいつも言っていることだが、侵略、虐殺でも、「あったか」「ないか」の応戦になってしまうのは、論理的な議論ではない。そもそも、戦争で侵略して何が悪いというのが、戦争をしかける立場である。武力を持つ国には、古今東西侵略する権利があるし、侵略して勝った以上、虐殺や略奪する権利がある。そのためにこそ、強い武力を持たなくてはならない。そういう軍国主義的な考えかたに立つか、軍国主義的な考えかたに立たないかが大事なのだ。これなら議論になる。

キチンと議論すればするほど、本来の目的からすれば周辺の意識は高まるし、説得力も持つはずである。状況認識が一緒でも、拠って立つ論点が違えば、戦略は当然変ってくる。そこを競うから、議論が白熱するのである。「あった」「ない」の状況認識で競うのは、議論でも何でもない。このように、真っ当な議論から逃げてしまうヒトがなんと多いことか。全く持って、日本人の多くは、論理的にモノを考えることも、キチンと戦略論を戦わせて議論することも、どちらも不自由な方たちなのである。これもまた、「甘え・無責任」ですごしたいがゆえに、自分のスタンディングポイントをハッキリしたくない、いや、そういう意識さえないためなのであろう。

さて、核武装の問題については、1999年9月に、JCO東海事業所でおきた「臨界事故」が、実はいい示唆を与えてくれた。かつて核開発全盛の1950年代、中性子爆弾というものが考えられた。核分裂のエネルギーによる「爆発力」ではなく、核分裂時に出る強烈な放射線を利用し、生物に対してのみ破壊力を持つ核兵器である。放射性物質が臨界に達すれば、強烈な放射線は出る。そして、バケツがあれば臨界は達成できるのである。それを臨界事故は教えてくれた。日本には多量の核燃料がある以上、こういう「放射線爆弾」を作ることは可能なのだ。

ということは、あとは自爆テロをする気の「特攻兵」さえいればいい。核実験も、ミサイルも何もなくても、「バケツさえあれば、日本は「核兵器」を持ててしまう」、ということである。少なくとも、ビルの中や敷地の中にいる人間を殺傷することが可能なことは実証されている。その一方で、日本人には世界的に「何をしでかすかわからない」「カミカゼ」のイメージがある。そして、国内に備蓄された大量のウランやプルトニウムがある。これだけで、世界的に見れば、相当な「核」抑止力になるわけである。

実際、諸外国は戦略論を組みたてる際に、あらゆる可能性を考慮に入れ、その危険性とそれに対する対応、そしてその事態が起こりうる確率を考えて、最終的な戦略を構築している。日本人がのほほんと平和に浸っている一方で、海外の大国は、日本が核武装をした場合にどう対抗するか、というシミュレーションもちゃんと行っているのである。そう思われている以上、我々だけが是非論のレベルにとどまっていては意味がない。正しい戦略を構築することすらおぼつかない。

間違いなく、実際に核兵器を作るのは間尺に合わない。それと、机上のシミュレーションとして、核武装したときのSWOTを分析するのは全く意味が違う。そして、「瀬戸際外交」ではないが、「アイツらをイジメて怒らせると、ホントにキれてやっちゃうかもしれないぞ」、というイメージ上の抑止力を持つのは、決して間尺に合わないことではない。そういう意味でも、議論自体を否定してしまうのは全くもって意味がない。可能性を議論することがこそ大事なのである。これがわからず、感情論に終始している間は、全く持って「国際化」など不可能である。


(03/06/20)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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