モテるヤツ







レッド・ツェッペリンの70年代のライブを収めたDVD、CDが、オジさん、オバさんを中心に爆発的に人気を呼んでいる。この世代は、自分が音楽をプレイするしないに関わらず、「濃い音楽ファン」が多い。だから若者よりも、30代・40代の方が、余程CD等の音楽ソフトへの支出が多いのは、業界の常識になっている。しかし、今回のヒットはそれにとどまらない、幅広い顧客を掘り起こし、レコード店へ向かわせた。それは、そもそもこの世代においては、一般的に「ロックバンドはカッコいい」という、コンセンサスがあるからだろう。

そういうオジさん、オバさんが若かりし70年代。ギターが上手いヤツ、ヴォーカルのカッコいいヤツは、モテたのだ。それがバンドをやる動機にさえなっていた。別に、トップスターに入れ揚げるということではなく、クラスの中、学校の中でも、バンドをやって学園祭のスターになればモテたのである。ヴォーカルでいい男とかいうと、間違いなく一番モテた。ギタリストは一つ間違うと、ギター少年のファンにばかりウケるということも多かったが、それでも女のコのファンも少なからずいた。

という具合に、男のコのバンドには、女のコのファンが集まってきた。そのファンたちは、擬似かリアルかはさておき、バンドのメンバーを「恋愛の対象」として見てくれたのだ。それは事実だし、それがバンドという存在の記号にもなっていたのである。そして、それが「バンドをやる」というモチベーションに大きく貢献した。これは野球やサッカーといったスポーツも同じだ。エース級の選手はモテたのである。ということで、アーティストでもスポーツマンでも、当時のコトバでいう「カッコいいヒーロー」になれば、黄色い歓声が常に応援してくれた。

しかし、今は、ステージの上やグラウンドの上、ピッチの上にいるヤツがモテるわけではない。そういうアーティストやスポーツマンの存在感はあるものの、それは決して女のコの「恋愛対象」とはならなくなってしまった。傑出したスポーツマンやアーティストは、いわゆる「オタク」と同じ、自分たちとは違う「普通でないヒト」である。そもそも「違う生き物」と思っているのだから、恋愛の対象にはならない。それを一緒に「見に行く」男のコこそが、パートナーであり、恋愛の対象なのである。観客とプレイヤーの間には、決して超えられない意識の壁がある。もっとも、芸人というのは長らく異形の衆とされ、庶民からは畏怖の対象であったのも確かだが。

もちろん、そういう「飛びぬけて光っているヤツ」を恋愛の対象と思ってくれる女のコも皆無ではない。追っかけ的なファンも、いるにはいる。しかし、それは一般的ではない。ファンの誰もが、恋愛の対象と思ってくれた時代とは違うのである。どちらかというと、そういうコは、相手に太刀打ちできるだけの「自分」を確立しているコが中心になっているのが現状であろう。しかし、男女のジェンダーの構造が変わってしまった以上、ある種の自己実現も含めて、スターと自分を同一化するような形で恋愛感情を持つ女のコは、確実にいなくなってしまった。

宮台氏の「まったりした人生」ではないが、団塊Jr.以降、「自己実現」ということをもとめなくなり、等身大の今のままの自分でいい、というマインドが主流となってしまったことが大きいだろう。だから、特別な才能を持ち、人々の注目を集めるスターに対し、自己同化させるという、かつてのモチベーションなど起りようがない。昔の高倉健さんの主演映画など、劇場から出てくるときには、みんな歩き方が健さんになっていたという。このような没入は極端としても、映画が終わると、男のコは、自分がヒーローになった気になり、女のコはその恋人になった気になっていたものだ。

もちろん、いまでも自己同化的に没入してくれるファンもいるだろう。ギター少年は少なくなったといってもいるし、ヴォーカリストに恋心を持つ女のコもいないわけじゃない。しかし、かつてのように「引く手あまた」でモテるわけではない。一般的レベルでは、音楽やスポーツで成功しても、その金を目当てに「援交」の対象と思われるのがオチかもしれない。世間一般の少年・少女は、等身大の世界でしか生きていないし、それしか考えていない。それが良いとか悪いとかじゃなくて、現実がそうだということを理解できるかどうかが大事なのだ。

その一方で、音楽やスポーツに打ち込む少年は、その分野の「二代目」という傾向も強くなってきた。ギターを握りバンドをやろうという少年にとって、彼等の最も身近なギターヒーローは、ギターの手ほどきをしてくれた「親父」だ。その親父は、70年代や80年代のギブソンレスポールやフェンダーストラトキャスターを持っている。したがって、ギター少年は、手ほどきと同じに、そのギターも伝授される。かつてと違い、「入門用ギター」が全く売れなくなってしまった理由はここにある。

これはスポーツでも同じだ。野球のリトルリーグ、少年サッカークラブといった、ハイレベルな少年スポーツチームは、かつてないほどに隆盛である。その一方で、空き地で草野球や草サッカーをやろうという少年はいなくなった。それ以外の一般少年は、野球ゲームやサッカーゲームこそするが、実際に体を動かそうとはしない。スポーツをやろうという少年は、ほんの一握り。しかし彼等は、のっけから英才教育である。そしてそのままエリートコースに乗ってゆく。多くの場合彼等の父親は、学生時代とか、体育会系の運動部の選手で活躍していることも多く、ここでもまた「二代目」化が進んでいる。

日本が「食うや食わず」を脱し、自由なライフパスの設定を自らできるようになって久しい。その結果、世の中自体が、行きつくところに行きついたのが現状である。適材適所が進んだ。「隠れた逸材」などほとんどいない。というわけで、適性がある人間は、才能も環境も、親から受け継ぐのが当り前の時代なのである。「一子相伝」。「蛇の道は蛇」。それはそれですばらしいことである。その方が、余程社会的な適材適所につながる。それは、本当に才能を持った人間が、持って生まれた能力を切磋琢磨する社会をもたらす。ステージと観客席の間にある見えない壁も、「明日につながる社会の進化」という視点からは、意味のあるモノなのかもしれない。


(03/07/04)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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